「科学的に正しい」という言葉に寄りかからず、論理的に考えることが大切なんです(養老孟司インタビュー)

2011年に生物学者・池田清彦氏の監修のもと、各分野の専門家に「寿命」をテーマに寄稿いただいたサイエンス論壇誌『人の死なない世は極楽か地獄か』(技術評論社/バク論シリーズ)を刊行しました。同書の刊行に併せ、寄稿者の一人として「あとがき」を担当していただいた解剖学者の養老孟司先生にインタビュー、科学的であるということの本質をいかに解きほぐし、目先の現象に流されずに物事を捉えていくか? 科学のあり方について総括していただきました。

◼︎科学を安易に信じない態度が科学には必要なのです

――「サイエンス・オピニオン書籍」という位置づけで新しいシリーズを構想しているのですが、科学的なものの情報発信について先生はどのような考えをお持ちですか?

養老 まず基本的な話をすると、科学者の9割くらいは自分が専攻してきたことを社会的に活用しない傾向があるんです。特に僕らの育った世代は絶対しない。たとえば、僕と同じくらいの世代の法学部の先生が総合雑誌に寄稿すると、ジャーナリストのような書き方をしているって怒られちゃう。

 僕も大学にずっといたから分かりますけど、自分がやっている仕事を自分と意見の異なるところで発表したりはまずしないですね。日本人はそういう訓練をあまり受けていないですから、そもそも批判に対して自信を持って反論できる人は少ないのではないですか? 叩かれたら腰砕けになってしまうというか。

欧米では、自分の意見を強く押し出さざるを得ないところがありますが、日本の場合はそこまで極端じゃない。ただ、議論をしない代わりにドグマを押し付ける。

――なるほど。知らない間にドグマができてしまうところがありますね。

養老 まあ、唯一の極端といえば戦争中でしょう。一億総玉砕っていう全く論理が通っていないことを平気で推し進めたでしょう? ただ、終戦になったらあっという間に引っ込んだ。本音ではあまり信じていなかったということなんでしょうが、これは科学で言ったら大きな欠点ですよね。

――科学的思考が育ちにくい土壌なんでしょうか?

養老 それ以前に、日本の文化の特徴と言ってもいいでしょう。別な意味であまり抵抗が無い。何を言われようと日本人は結構何でも受け入れちゃうんですよ。かつてのオウム真理教とかね。それで、いいモノも悪いモノもすべて一緒に流してしまう。だから、変わるときはガラッと変わることがある。明治の時と戦後と、こうした大変革をこの100年あまりで2回やっていますから。

――今はネットであらゆる価値観の分散があって、まとまりようが無いですよね。その中であらゆる流れが突如生まれたりする。

養老 いま申し上げたような土壌があるから、非常に危ないと思いますね。禁煙運動なんか見てもわかるでしょう? はっきりした論理よりも一種の信念体系が重視される。そのへんは宗教の信仰と変わりがないんですよ。たとえば、副流煙が危険とか言いますが、私に言わせれば、それは宗教と同じ信念体系なんです。科学的に実証されているだろうと言うかもしれませんが、実証されていると感じるのは本人の意識なんですから。

――実証されているからすごい、正しいというわけではない?

養老 だって意識が無かったら実証も何もないでしょ? ということは、飛躍に聞こえるかもしれませんが、科学は意識の産物ということになりますね。ならば、その意識は科学的に確証されているのか?

――なるほど。「科学的に正しい」と言っても、絶対ではないということですね。

養老 「意識とは何か」と問うていくと、神経細胞がつながって電気信号を起こしていると考えるのかもしれませんが、それでどうして意識が発生するのかわかっているわけではない。意識というのは科学的には基礎付けられていないんです。

――意識は科学で基礎づけられていない、なのに科学的であるということで正しいことが実証されたとみんな思い込んでしまう。

養老 だから、信仰に依存しているということなんです。科学的に実証されたことが正しいんじゃなくて、「とりあえずそう認めていることだ」と捉えるのが一番理想的なんです。

◼︎結論を求めない「宙ぶらりん」をいかに受け入れるか?

――そう考えると、「科学的」という言葉も注意を要するというか、なかなか一筋縄には行かないものなんですね。

養老 物理学が成り立つのは、実験が単純化されていて簡単だから成り立つんです。実際の生物を扱うのとは根本的に状況が違うでしょう? だから、京都大学の山岡伸弥さんがやっているiPS細胞だって、普通は科学だと考えられているんでしょうが、あれは厳密に既存の細胞という舞台の上で作られたものですよね。ということは、基本的にはサラブレッドの育成と同じことです。そこに絶対的な信念体系を求めるとしたらそれは間違い。私からすれば、人間が絶対的なものを考えるということ自体が不思議です。どうして絶対的なものを信じることができるのか? 科学のなかにも、そういう矛盾は結構あるんですよ。論理的に考えていくとおかしなことが。

――そうした点をふまえたうえで、科学的という言葉をどう捉えていけばいいんでしょうか?

養老 僕は経験科学であるべきだと思っています。絶対的な信念体系に絡めとられず、とにかく経験的にやっていくしかない。

――経験科学ですか。

養老 これに加えて、もう一つ面倒なのは、意識は後追いだということが証明されてきている点です。たとえば、水を飲みたいから水を飲むと皆さんは思っているけれど、実はそうじゃなくて、脳機能が先に水を飲むほうに向かって動き出した半秒後に水を飲みたいという意識が出る。だから、頭の中でああしたい、こうしたいという欲求が起こることは、やむを得ない。脳が勝手に動くんだから。だけどそれを止めることはできる。つまり、「モーゼの十戒」は全部してはならないことになる。

――汝殺すなかれ、盗むなかれの世界ですね。

養老 そう。あいつを殺したいと思うことはあるけれど、殺してはならないっていう感じでしょ? こうした話をすると、脳が動いて、それを止めることができるというのは割合に理解できると思うんですが、それを認めるということは極端にいうと「念力」を認めることになってしまうんです。

――念力、ですか?

養老 だって、脳が勝手に動く物理過程に「殺すなかれ」という意識が干渉するということですから。そういう考え方をしていくと、意識の問題が最終的に出てくることはわかりますね?

するかしないかは本人が決定できるということです。当然、そこには社会的な責任感も発生します。科学的ということを突き詰めていくと、こうした問題に突き当たることになるんです。

――科学と言っても、最後の最後には意識の問題が出てくる……そうなってくると、それが絶対とは言えなくなってくる。結構しんどいですね。

養老 ええ。結論を求めない宙ぶらりんな状況で生きていくのはつらいことですから、状況がきつくなった場合、人間はどうしても白黒を付けたくなる。それは科学的というより政治的なものです。タバコを吸うか、吸わないかみたいな。

――賛成か反対かになっちゃう

養老 先ほども言いましたが、戦争中とかもそうだったわけでしょう? その状況では、こういう議論自体がゼロになってしまう。つまり、どんなことを言っても、どっちに有利かということで白黒を判断する。この国はそういう状況に陥りやすいっていう癖があることを僕はよく知っています。

――そう言われると、日本の社会風土に一番顕著な傾向なのかなと思ったりします。

養老 魚の群れがいっぺんに水槽にぶつかるように、そうだということになったらいきなり動きますからね。そういう中で、僕が言っているような捉え方を根付かせるのはなかなか難しい。その意味では、この本もなかなか売れないかもしれません(笑)。そのへんは上手にごまかすしかない。

――ごまかすしかないんですね。それは確かに難しい課題です(笑)。

◼︎ 「外圧に弱い」のは悪いことじゃない

――シリーズ第一弾の本(人の死なない世は極楽か地獄か /バク論)をお読みになって、どのような感想をお持ちになったでしょうか?

養老 本川達雄先生がおっしゃっているようなエネルギーの話は面白ですよね。たとえば、1次産業従事者が1955年頃で労働人口の4割。それがいま3%台ですよ。50年ほどのうちに、10分の1以下になってしまったんです。なんでそうなったのか? それは本川先生が述べられているように、個人当たりのエネルギー消費量が40倍になったからですよ。自分の作っているエネルギーで仕事をするなんてバカなことはない。

――先生にご寄稿いただいた一節に、「人間の値打ちが下がった。40分の1になってしまった」とありますね。

養老 そう。値打ちが下がったんです。先ほどお話したような日本人の特性で全員がそっちをいいと思って進んでいって、結果としてそういう値打ちを下げる状況を作ってしまった。短期間のうちにこんなに1次産業を捨てた人が多いというのは、歴史的にも皆無に近いんじゃないですか。

 言い換えれば、こんなにエネルギーが豊富な時代なんてもう無いということです。それは石油の時代だけ。ですから、私から言わせれば、代替エネルギーなんて考えているのはバカげていることです。何も深刻に考えていない証拠。いいですか、エネルギーがあるからお前要らないよっていうのがいまの会社なんです。それが、1次産業の衰退以後ずっと起こり続けている。そうした状況では、どうしても過剰なものを作らざるを得ない。

――そう考えると、昨今のエネルギー問題は捉え方がずいぶん表面的なんですね。

養老 この10~20年ほどの間にアメリカで発生していることは、本当象徴的でしょう? エネルギー危機が起こった。石油が切れた。アメリカ人だってバカじゃないから、できるだけエネルギー使わないで人間が暇つぶしすることを考えた結果、グーグルに頼るようになった。

――なるほど。日本の社会はこれからどうなるでしょうか?

養老 日本人っていうのは均質に動くんですよね。別な言葉で言うと、いろんな事が起こっても社会は世間の安定平衡点に立つんですよ。それがとても早いんです。よその社会では革命が起こっちゃう状況でも、日本では一箇所にまとまって修復しちゃって、常に安定平衡点に落ちる。僕はそれを打ち破るのが「外圧」だと思っています。つまり、外部からエネルギーが注入されると動くんですよ。それを回収するように。

――外圧ですか。

養老 外国の人は「日本は外圧に弱い」と単純に言うけれど、それは外圧がきちんと反映されるということなんですよ。アメリカに依存してるとか、そういう捉え方は違うと思いますね。もっと構造的なもの。そもそも、ホントに親アメリカの人ってどれくらいいるんですか。

――どうなんでしょうか? 世間一般の人はあまりピンと来ていない気もします。

養老 イデオロギーというのはかなり表面的なもので、その根底にあるものはもうちょっと違いますよね。

――まあ、アメリカが余程おかしくならない限りこれが続くということなんですかね。では、いま話題になっているTPPとかも……。

養老 私がいう意味での外圧ですね。それを上手に使えれば社会は変わるかもしれません。要するに日本を動かすには外圧しかないんですよ。

◼︎信念体系を疑い、確かな「モノ」を前提にする

養老 たとえば、私の娘が小学校のときに「お父さん宇宙の果てってどうなっているの?」と言うんですよ。「ここにモノが入っている空間があるだろ? モノには果てがあるけれど、この空間に果てなんかもともと無いんだよ」……そういう説明をすると怒るんだよ。そうでしょ?(笑)

――普通は空間にも果てがあるようにイメージしてしまいますね。

養老 宇宙の果てっていう言葉を使うときに頭の中に浮かぶのは、立体と同じ、ある空間的なリミットを持ったものですよ。だけど、宇宙の果てっていう空間ですからね。それはそもそもリミットが無いんです。そうしたリミットが無いっていう概念そのものが子どもの頭には入らないんですよ。自分がその物体をモデルにして空間を考えるから。何も無いものを考えることはできませんからね。

――それって、子どもに限らないですよね。しかも、一度そういうイメージを持ってしまうと、なかなか離れるのが難しい。

養老 話がそういうところにかかってくると、「先生の話は難しいですね」っていう人が多いんです(笑)。それは僕が前提を言うから。そうすると途端に分からなくなっちゃうんです。先ほど言ったように、自分の旧来の信念体系を持っている人にとっては、それとうまく噛み合わなくなって混乱するわけです。

――その信念体系を見直すって言う人はいないんですかね。

養老 少ないでしょうね。これも先ほど言いましたが、僕自身が非常に良かったと思うのは終戦を体験したことですね。小学二年生の頃のことですが、周囲の大人が全部と言っていいくらいに意見をひっくり返すんですよ。

――信念体系を疑うきっかけになったということですか。

養老 疑うも何も、疑うことが当たり前になりました(笑)。

――リアルには想像できませんが…先生の世代以降はそんな経験はあまりないでしょう?

養老 団塊の世代とは10年しか違わないのに、まったく違いますからね。彼らは平和と民主主義で生きてきたわけで……。

――それが崩れると言うことはよほどのことですよね。そういう体験があるのか、ないのか……。

養老 おもしろいのは、明治維新がどういう影響を与えたのかというと、西郷隆盛とか坂本竜馬とかの名前はすぐ出ますよね。でも僕の考える明治維新というのはそうじゃないんですよ。北里柴三郎であり、野口英世であり、志賀潔であり……何かって言ったら、みんな理科系に行ったでしょ?

 戦後の日本がモノづくりで高度成長したのと全く同じなんですよ。徳川300年の価値体制を完全にひっくり返したときに、その時代の子供たちがどう思ったか? 信用できるものは、社会のイデォロギーとかじゃなくてモノだという、そうした感覚を持ったのではないか? だから、北里柴三郎の本音は「ベルリンだろうが熊本だろうが、バイ菌に代わりがあるわけじゃない」ということになる。

――うーん、確かにものすごくたくさんの変化がありましたよね、あの時代は。

養老 その経験のない世代は、やっぱりモノにこだわることはできないでしょ? 僕がモノにこだわるのは、それが信用できるっていうことを知っているから。逆にそれしか信用できない。そこで間違えたら明らかに問題とわかる。

――モノにこだわれないと、世の中が社会科学系に偏っちゃいますね。

養老 だから、僕は社会科学系なんて一切信用してないもの(笑)。いったいどこに拠って立っているんだよ、と思って。

――モノづくりにこだわる理由は、先生の世代ではそういう背景があるんですね。

養老 そうです。僕らや僕らよりちょっと上の世代は、一切理屈を言わないで一生懸命車を作ったり、計算機を作ったりしていた。なぜかというとあいつらは嘘をつかない。ひっくり返るものがない。僕の信念体系はそれですよ。

――嘘をつかないものに拠り所を置くと。

養老 「科学ってなんですか?」と聞かれたら、僕は「自分で責任が取れる体系」と答えるでしょうね。

言ったことがおかしかったら、それはこちらが間違いなんです。他の部門だといくらでも的外れな言葉で言い訳ができますが、そうはいかない。

――自分で責任が取れるって言うのは、1次産業従事者と同じですね。

養老 もしこういう仕事しなきゃ、1次産業をやっているね(笑)。1次産業も嘘をつけない、間違えたらだめですからね。結果が自分に返ってくる。今年は不作だとか、肥料のやり方を間違えたとかね。

――自分が悪い、改善の余地は自分にあると。

養老 それが一番人を育ててくれる場所でしょう。僕は科学をそうしたものとして捉えているし、この点について過去に本も出しています。(バク論シリーズにも)こうした科学的な捉え方を促すような本作りを望みたいですね。

(おわり)

プロフィール

養老孟司(ようろう・たけし)

解剖学者。東京大学名誉教授。北里大学大学院教授。医学博士。1937年神奈川県生まれ。東京大学医学部博士課程修了。専攻は解剖学。著書に『唯脳論』(筑摩書房)、『涼しい脳味噌』(文藝春秋)、『バカの壁』『死の壁』『養老孟司の大言論』『養老訓』(以上、新潮社)、『いちばん大事なこと―養老教授の環境論』(集英社)、『私の脳はなぜ虫が好きか』(日経BP出版センター)などがある。

*技術評論社HPより転載