「日本人特有の民族性って、そういう議論がわからないね」(栗本慎一郎インタビュー2−③)

栗本慎一郎の全世界史』、その刊行を記念して著者・栗本慎一郎先生への著者インタビューを公開します。本書で書き尽くせなかった「行間」を少しでも感じとっていただけると幸いです。ロングインタビューになったため、3回に分けてお送りします(長沼敬憲)

――今回の本では特に触れられていませんけれども、日本列島がもともとユーラシアの「アジール」(最終避難場所)だったということもおっしゃっていますね。この話に関心を持つ人も多いんです。

栗本:それは、もともとそういうことを言っている人がいるわけ、網野善彦さんのような日本史家の中にね。

つまり、(日本列島には)大陸からいろんなものが流れ込んできている。朝鮮半島までは死滅してしまったものが日本では生きている、だからアジールじゃないか、ということを言っている人は結構いるんだよ。

――それはいわゆる極東というか、ユーラシアの行き詰まりだからという地理的な問題もあると思うんですけど、日本人特有の民族性はそういう地理的なものだけで形成されたんでしょうか?

栗本:日本人特有の民族性って、そういう議論がわからないね。せいぜい蘇我氏が没落して、(遊牧騎馬民の)連合の思想がベースに残っているだけ。

――日本にはいわゆる和の感覚が、世界的にみても極端なぐらい顕著であるという人はいるんですけど、そういうものはあまり?

栗本:世界的にみて顕著という話は嘘。それはあると思うんだよ。パルティアやシベリア、当然、カザールやキメクにもあった。

――ああ、汎世界的にもともとあったものが、日本ではわりと今も残っていると……。

栗本:遊牧帝国の中には皆あった。ローマは遊牧帝国にはない。違いはそれだけ。

――逆に西ヨーロッパ的な価値観が出てくることで、そうした普遍的なものが潜在化していった?

栗本:そう。キリストが生まれた根源もそこにあったし、(遊牧帝国の中では)シャーマニズムも、イスラムも、みな一緒に大きな町を作って暮らしていた。

ある意味で日本ではいまもそれは可能です。(日本には)皆あるんですよ。もともと神道があるところに仏教入れて、あんなでかい大仏なんか作ってね。

――それがヨーロッパ社会ではありえない。

栗本:ありえないです。

――ここまで文明化した現代にも、日本にはユーラシア的なものが温存されている面があるんですね。

栗本:ユーラシア的なものは、ヨーロッパではイスラム教との問題とか、キリスト教の異端問題とか、いろいろと起こるんですよ。

たとえば、ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教従はもともとキリスト教徒です。キリスト教ボゴミール派です。これは、カトリックの三位一体じゃない。イスラムが初期は非常に寛容だったから、彼らはイスラム教に入って、そこで生きようとしたわけ。

そういうボゴミール派はミトラ教的な側面が非常に強くて、たぶんユーラシア的と言ってしまってもいいんですが、それは日本人と近いと言ってもいいものです。

――ヨーロッパのいわゆる表社会では全然表れていない側面というか……。

栗本:それはカトリックがいけないんです。あんまりいけない、いけないと言うのもちょっとまずいところはあるんだけど、前の前の法王(ヨハネパウロ2世)はカトリックのやってきたことを反省して、いろいろ謝罪しているでしょう?

――はい。

栗本:アルビジュア十字軍って知ってる? あれ、本当に滅茶苦茶なんだよ。確かに(ああいうものを見ると)日本的じゃないわけ。異端をぶっ殺すというね。それも相当なぶっ殺し方だよ。

そういうところは、(全世界史的に見た場合)逆にゲルマン人のほうが変わっているんだよ。日本人のほうが本当は普通。ヨーロッパ中心に見て、日本人が変わっているというのは問題がある。

――ヨーロッパ人とか、いわゆる漢民族とか、ああいうエリアに住んでいる人たちのほうがちょっと特有だと?

栗本:そう。主流のゲルマン民族と漢民族のほうがおかしいんです。もともとの数で言ったら、日本人のほうが普通でね。だから、日本人が変わっているとかさ、ああいう俗の議論は全部駄目なの。

――逆なんですね。

栗本:騎馬民族、遊牧民の中では、本当に一兵卒の一民衆が王様に何でも言って、言ったことによってどうかなることはないんですよ。

――よっぽど民主的ですよね。

栗本:そう。ゲルマン人も最初は持っていた。マルクスがそれを原始共産制と間違えたわけです。

――マルクスはそのあたり(ゲルマン人の初期)までしかアプローチしていなくて、もっと根源にあるものには目がいっていないわけですね。

栗本:そう。皆、原始共産制だと。でも、原始じゃないです、別に。

■「上の生命」を想定しないとわからないこともある

――逆に日本は「アジール」だったので、ユーラシアの遊牧民が当たり前に持っていた価値観や感性、そうしたプリミティブなものが、滅ぼされないまま温存できたというのはあるんでしょうね。

栗本:そこなんです。でもね、何でアジールなの? (当時の人びとは)ここから先はアメリカじゃない、なんてことはわからないでしょう? 何でそうなるのか? そこが問題なんです。

――なるほど。

栗本:そこで、生命論の視点、つまり社会そのものが生命体であるという視点が必要になる。こうしよう、ここで殺し合ったら皆死んじゃう。そういうことを我々の上の生命が考えたわけです。

――上の生命というのは?

栗本:(当時の人びとが)下のほうで感じて「これはやめたほうがいいんじゃないかな」と思ったわけないと思う。

――話し合って、議論して決めたわけじゃないということですね。

栗本:国民投票なんてするわけはないんだから、その時は感覚ですよね。人口が増えるのも減るのも同じ。子供を作る、作らないも、みな感覚じゃないですか。

太平洋戦争中は富国強兵、「産めよ、殖やせよ」と政府は言ったけどさ、ふつう国民はたまたま作っちゃっているのね(笑)。単に空襲で電気が切れたから、(その間に)子供を作っているという……。

――論理的なものじゃないですからね。

栗本:そう、全然違う。せいぜい感覚的、感情的なものでしょう。これは、社会が生命体であると考えると理解できることなんです。

――安易に宗教の言葉を持ってこないで、もう少し生命論的に言ったほうがニュートラルにものが捉えられそうですね。それは何とは、もう少し具体的に言えないものなんですか?

栗本:今は言えないですよ。でもそのうち300年400年経つと、ウイルスが働いて、人が死んだり死ななかったりするのと同じようにね、感情の遺伝子みたいなものが見つかると思う。あると思うんです、絶対に。探せばあるんです。

――宗教と違うもっと科学的なアプローチで、より生命の本質に迫れる可能性も将来的にはあるかもしれない?

栗本:ある程度頭のいい人が続けばね。ただその保証はないね。

――あと日本史についてなんですけど、先ほどお名前を出された網野善彦さんの業績を先生はどういうふうに感じられていますか?

栗本:だからアジール、彼はそういうことを言っているわけ。でもそれは「こういう証拠があるよ」と言ったのであって、当然、私が言っているような歴史じゃないわけですよ。

だから網野さんの業績をいくら勉強しても、ギリシャ危機はわからないわけです。本当は世界のなかで日本を考えないといけない。そこがある意味でこの本の難しいところじゃないですか?

――ただ、網野さんが登場した頃も……。

栗本:あれでもいかんと言われた。

――枠の外にあったものに対してようやく視点がいったわけですから、非常に画期的な面もあったと思います。

栗本:そう。画期的でもあるし、あれでもいかんと言われた。そんなもんですよ。

――かなり抵抗があったんでしょうね。でも、先生のおっしゃっている生命論は、それよりもスケールがさらに広いというか……。

栗本:いいんだよ、抵抗があったって。本当に世界のことを考えたら、誰だってこういうふうにならざるを得ない、関心を持たざるを得ないわけだから。

――歴史を本当に学ぶ人は経済にもある程度通じていないといけないでしょうし、経済人類学的な視点を持たざるをえないということですね。

栗本:そう僕は思いますけれどね。そもそも僕の場合、いろいろな異端を研究しているから、正統についても詳しいんですよ。正統がなぜ間違っているかを研究しているから、正統を教えてくれと言われて、教え方はうまかったの。

経済学ではまずマル経(マルクス経済学)、それから近経(近代経済学)をやるんだけど、(こうした講義も)非常にわかりやすいと評判なの。知っているから言えるわけですよ。それはそれで食っていたわけだからさ。

■真実が見えたら、その真実にどう対応するか?

――では、これからの世の中で人はどう生きていくか? 『パンツを脱いだサル』の終わりに全体像が書かれていますが、その点は変わらない?

栗本:変わりませんね。

――これは「バカにはわからない」という話で終わってしまうんでしょうか? それとももう少し何か感じたい人に対して、この本がヒントに多少でもなるでしょうか?

栗本:なると僕は信じているけど。例えば、ノーベル賞を受賞した山中(伸弥)さんとか、そういった人たちが(本を読んで)「これはこういうことなんだ」ともし思ってくれるところがあったら、それは役に立つと思う。

――何かもともと持っている人にとって、これ自体が起爆剤、きっかけになる可能性がある?

栗本:あるけれども、本人の力がないと、「お前そんなもの読んでいるのか」と上のバカ教授から言われて終わり。たくさんあります、この世の中では。

――学者ではなくて、一般の読者に対してはどうですか?

栗本:損得で言ったら、やめなさいと。でも、なぜだか知らないけれど、自分の国や民族の歴史を考えちゃっている人がいるじゃないですか。そういう人には少し助けになるかもしれない。

変なつっかかりを取っ払って、見えてくるものがあるかもしれないけど、見えたら損するかもしれないからやめなさい、とも言えるね。

――真実が見えてしまって、生きづらくなるかもしれない?

栗本:そう。真実が見えたらば、その真実にどう対応するかということも問題になるんですね。たとえば、フランシーヌさんのことを本の中で取り上げたでしょう?

――フランシーヌ・ルコントさん。

栗本:そう。僕の中ですごく印象的な事件でね、彼女は1969年にパリで焼身自殺したわけですが、彼女がしたのは絶対そういうことだったと、(そういうことを感じて)生きてもこれはしょうがないと。

たかだかベトナム戦争反対とか、そんなことで人は死なないと思う。ベトナム戦争行って弾に当たったら確かに死ぬよ、でも、それは別問題なんです。そういうことを政府に抗議して死のうなんて誰が思うか。でもそういう歌が大ヒットしてね。

――「当たっている部分も当たっていないと私が思う部分もみなに歌われてしまった」と先生は書かれています。

栗本:そうなの。あの時も「何か違うけど、でも気になるな」と。

――そういう感性のある人にとっては、何かパンドラの箱を開けるような……。

栗本:でも、それであちこちバラバラに気になっていたことが、つながってくるようなことがあるかもしれない。

――それが人生を生きる上で得になるかどうかはわからないけれども……。

栗本:そんなことは知らないよ。基本的には損じゃない?

――でも、その人の生きる核とか、何か支えにはなるでしょうか?

栗本:お利口になったほうが生きやすい。でも、「お利口にならなくていいよ」と僕は言っている。それは、お利口になれないためにいろいろ失敗してきてね、それが落ち込んでいる人に対する気分的救いになるかもしれない。それでいいじゃないですか。

――その人が力強く……。

栗本:本人が別のところで生きてればそれでいいです。生きる糧は野球がうまいとか、サッカーがうまいとか、それで生きているけど、どうも気になってしょうがないということがある。そういう人には(この本は)いいけどね。でも、まるっきり弱い人、これを読んじゃうとアルバイトもできなくなるという人は、悪いけど読まなくていいよ。

――それだと毒薬になっちゃいますね。でも、何か頑張っている人にとっては、心の中では支えになる可能性にはある?

栗本:それはそうかもしれないけど、だから読めとは言えないね。

――僕はそういう価値があるんじゃないかと思っています。

■マホメットに言ってやりたかった

栗本:たとえば、マホメット、あの人はいろいろ悩んでいたと思うんだ。でも、(彼のことは)あまり言えない。現在のイスラム教はうるさくて面倒くさいからね。

――意図的にイスラムの話は入れなかった?

栗本:そう、かなり入れてない。昔はよかったという話にして、今の指導者とか神学者には触れたくない。彼ら自身が檻の中に入っちゃってどうしようもないですよ。

――タイムスリップできればマホメットに会いたかった?

栗本:そう。「こういうことなんだよ」と言ってやりたかった。

――彼もすごい人物ですよね。

栗本:(マホメットの場合、商人としての)生きる道は持っていて、それから悟りを開いて。だからコーランもやたら現実の話ばっかりなのね。コーランなんて普通読めないよ。マホメットが生きていて、まだコーランを書いている頃には意味がある。

――キリストよりもマホメットのほうが先生の評価は高い?

栗本:個人が見えるんだよね、マホメットはね。キリストは本人が聖書を書いてないしね。マホメットは一応、本人がしゃべっているわけだから。

――人としてのリアルな像が浮かび上がってくるということですね。

栗本:釈迦もいいと思うんだよね。釈迦は「サカ」であって、「エシュク」「アサカ」と自称していたサカ族、スキタイ人とつながる。だから本当は(釈迦は)アスカなんだよ、ということはありえる。

――より根源的なミトラ教やパルティアの世界とつながる可能性があるわけですね。

栗本:そう。仏教はインドに生まれたんじゃない、という説がある。釈迦とゾロアスターは基本的にはほぼ同世代だから、相互に交流していた可能性は非常に強いと思っています。

――日本の飛鳥に限らず、「アスカ」に近い地名が世界中に散らばっていると言っている人もいます。それはありえることでしょうか?

栗本:十分ありえます。アスカがベーシックなんだと。

――今日(2013年4月13日)ちょうど「ナスカ」に関するニュースがあったんですが、アスカとナスカも似ていますよね。アスカの流れをもった人たちが南米のほうまで行ったんでしょうか?

栗本:可能性はあるけどわからん。それに例の地上絵。あれはくだらんですよ、本当。

――あれは別に宇宙人がやったわけじゃない?

栗本:くだらない。こんなんでウケるのかということで描いたんだ。だって30メートルのものなんて、僕の低い身長でも全部見渡せるよ。全然特殊能力なんかいらない。

ただ、あれも思い込みがあって、それに一生捧げる人もいる。でも、すごいこと全然ないよ。昔、世界三大ガッカリってあったのを、知ってる? すごいと言われるけど、行くとガッカリする。シンガポールのマーライオンと、コペンハーゲンの人魚姫と、ブリュッセルの小便小僧。すごく有名なんだけど、行ってみると……。そこで感動しているのは韓国人と日本人だけ(笑)。

――蓋を開けてみるとそんなものかも……。

栗本:(ナスカの地上絵を)見にいった人は、だいたいガッカリしている。そういう時に「これはおかしいよ」と気がつくようなセンスが必要なの、歴史家に。

ちゃんと目のある人は気づきますよ、「そんなことはないだろう」って。「俺が中学の時に校庭に描いたほうがうまかった」くらいのほうが普通です。今度見つかったというのも、それはあっても不思議はないけど、別に大したことじゃないと思う。

――歴史の先生が書かれているような全世界史の構造からいうと、あまり重要ではない?

栗本:そうです。たとえば、日本と南極とのつながりとか言うのならちょっと珍しいんだけど、そういうものではないでしょう。

――残念ですけれど、そろそろお時間ですね。今回のインタビューはこのへんで……。また機会を設けてお話をお伺いできればと思っています。

(終わり)

◎栗本慎一郎 Shinichiro Kurimoto

1941年、東京生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。天理大学専任講師、奈良県立短期大学助教授、米ノースウエスタン大学客員教授、明治大学法学部教授を経て衆議院議員を二期務める。1999年、脳梗塞に倒れるも復帰し、東京農業大学教授を経て、現在有明教育芸術短期大学学長。神道国際学会会長。著書に『経済人類学』(東洋経済新報社、講談社学術文庫)、『幻想としての経済』(青土社)、『パンツをはいたサル』(光文社)、歴史に関する近著として『パンツを脱いだサル』(現代書館)、『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版)、『シルクロードの経済人類学』(東京農業大学出版会)、『ゆがめられた地球文明の歴史』『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)、『栗本慎一郎最終講義』(有明双書)など。