「生きる力を生み出す究極の哲学とは?」
今回のテーマは、
「生きる力を生み出す究極の哲学とは?」。
自分がいま見ているものは本当に存在するのか?
一般的な日常感覚からしたら、
どこかピントの外れた観念論のように聞こえるかもしれませんが。。。
僕たちの社会は、その時代に合った価値観を共有し、
たとえ無意識であっても、それをよりどころにして生きています。
近代以前のヨーロッパ社会は、
こうした価値観の中心にキリスト教の神が存在していました。
竹田青嗣先生は、神を中心に世界を見つめることを、
「宗教のテーブル」
と呼んでいます。
このテーブルの中心にあるのは、「教祖の言葉」です。
言い換えれば、教祖が生み出した「物語」が価値観をつくりだします。
近代以降、ヨーロッパでは合理主義的な価値観が芽生えることで、
キリスト教の「物語」が衰退し、
宗教のテーブルが成り立ちにくくなってきました。
しかし、社会生活を営んでいくには価値観の共有は必要です。
神様に頼らず、人の力で世界をどこまで解明できるか?
それは、勃興しはじめていた近代科学の可能性を支えるためにも、
当時、どうしても成し遂げたいミッションだったのでしょう。
哲学がその役割を担っていた。。。
そう、「宗教のテーブル」から「哲学のテーブル」へ。。。
「哲学のテーブル」の中心には、教祖の言葉は置かれていないので、
テーブルを囲む人たちが
皆が納得できる考え方=「原理」
を見つける必要があります。
要するにそれが、自分の見ている世界は存在しているか。。。
主観と客観の一致
にあったわけですが、デカルトも、カントも、ヘーゲルも。。。
その原理を完全に見つけられたわけではなかったようです。
主観と客観を一致させるのは、原理的に不可能。
だから、ヘーゲルは人の認識を成長していくものととらえ、
人類の歴史は進歩していく、科学技術は発展していく、
その結果、徐々に完全なもの(神の領域)に近づいていくという。。。
進歩主義的な世界観が生まれました。
それまでの近代哲学の歩みを考えると、
これもまた画期的な世界観であり、
近代社会を動かす「物語」に育っていきましたが。。。。
いま・ここにいる自分自身の認識が正しいのかどうか、
それを保証してくれたわけではありません。
その完全な認識に、いつになったらたどりつけるのか?
誰にも答えられませんよね?
前置き長くなってしまいましたが。。。笑
ニーチェは、こうした過去の哲学の矛盾を見抜き、
「神は死んだ」
という有名なメッセージを遺しました。
神の呪縛から逃れられず、
完全なものを想定し、世界観を組み立てようとする。。。
そうした認識の仕方がそもそもおかしい、欺瞞であると批判したわけです。
問題は「神が死んだ」後の世界です。
神が死んだ以上、認識の世界の主役は人になりますね。
ニーチェが行ったのは、それまで暗黙の了解のように存在した、
主観と客観という図式自体を取り払い、
「客観はない」 「完全な認識は存在しない」
と明確に解き明かしたこと。
つまり、見ている人それぞれの「解釈」が存在する。。。
といって、ただ単に価値観を相対化させ、
絶対のものはないとニヒリズムを謳ったわけではありません。
そうではなく、その解釈の中に、
人という存在を最大限に活かす、最も優れた解釈があるはずだと。
たった一つの真理が存在するわけではなく、
最も有力な解釈こそ「真理」と呼ばれるものである。
と、価値観の編み換えをしたわけです。
自分が自分の世界を決めている。。。
前々回のメルマガで取り上げた「石の花」のテーマに則するならば、
「まなざし」
なんですね、なにより大事なのは。。。
世界がどうであっても、その世界の価値を決めているのは自分自身、
自分のまなざしなのだと思えたら、それがニーチェのいう
「強い人=超人」
ということになります。
これだけでも十分にパラダイムシフト(価値の転換)が起こりますが、
竹田先生は、このニーチェの実存哲学の先に、
フッサールの現象学を接続させました。
フッサールもまた主観=まなざしを認識の土台にしましたが、
彼が重視したのは認識することの根源、
目の前にあるものを「ある」と感じている「確信」でした。
あるかどうかが問題ではなく、間違いなくあると感じている。。。
この共有があるから、目の前のリンゴをリンゴとして認識でき、
たがいに「ある」と感じる共通認識をもとに、
リンゴの価値について話し合えるわけです。
リンゴを「生き方」とか「世界観」に置き換えても、
ちょっと複雑にはなりますが。。。
まったくおなじことが言えますよね?
つまり、「確かにそうだよね」という共通認識。
哲学のテーブルの上にこの共通認識を載せて、
それを土台にしてコミュニケーションし、相互理解を深めていく。。。
「教祖の言葉」をテーブルに載せると、
得てして他の教祖の言葉に不寛容になり、時に争いも生まれます。
宗教の世界だけに限定せず、
「正しさが対立を生み出す」と言ったほうがいいかもしれませんが。。。
大事なのは、そうした正しさよりも、
自分が快と感じるか、不快と感じるか?
「心地よさ」を土台にして、共通認識をつくっていく。。。
20代の前半、竹田先生からニーチェの世界観を学んだ僕が
もっとも強く感じたのは、
「身体で感じることの大切さ」。
当時、医療や健康の知識はほとんどありませんでしたが。。。
誰もが同じ「身体」を持っていて、
もっと言えば、おなじ「生命」を宿している。。。
ここを基準にすることで共通認識が生まれるのではないか?
そんな予感というか、強い確信があり、
それを人生のなかで証明していきたいと思うようになりました。
長くなってしまったので、この続きはまたどこかで書きますが。。。笑
のちに僕が本をつくるようになったのも、
身体や生命のことを扱い、
共通認識の補強のために科学を学ぶようになったのも。。。
すべてこのあたりを出発点にしています。
僕にとって哲学は観念ではなく、まして思想でもなく。。。
「生きる力」を体現する言葉そのものなんですね。
セルフメンテナンス協会での活動も、もちろんこの延長線上です。
すべてはつながっていて、
時間の流れのなかで少しずつ形になってきています。
次回のメルマガは、ゆかさんにバトンタッチしたいと思います。
楽しみにお待ちください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
一緒にセルフメンテナンスをして豊かな人生を創りましょう。
*セルフメンテナンス協会・メールマガジン(2020/10/19配信)より転載
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