「触覚を磨き、『生き物としての自分』を取り戻すことが、これからの生き方のテーマになりますね」(藻谷浩介インタビュー②)

ベストセラーになった『里山資本主義』の著者で、地域エコノミストとして多方面で活躍を続ける藻谷浩介さん。

著書によって広く知られるようになった「里山」という空間的なキーワードと、「セルフメンテナンス」という身体的なキーワード、身体のウチとソトをつなげることで、これからの生き方のヒントが見えてくる……そんな「仮説」のもと、藻谷さんへのロングインタビューが実現しました。

次から次へと繰り出されるマシンガンのようなトークに圧倒されながら、人生を自分らしく、心地よく生きるために必要なこと、ヒトという生き物のあり方、食べること、旅することの意味と価値など、様々な話題が飛び出したインタビューを、2回にわたってお届けします。

今回はその後編。2021年5月、都内にて収録。(長沼敬憲)


★前編はこちら
「人生を楽しんで生きていくには、楽観的かつ引き算思考が必要だと思いますね」(藻谷浩介インタビュー①)

穢れの感覚がいまも日本人には残っています

藻谷 先ほどメンタルの話が出ましたが、振り返ってみると、確かに小さい頃から肚は座っていたと思うんです。多動性で、落ち着きはなかったですが。
 たとえば、小学校5年生の時、自転車を整備していた父の手が滑って、握っていたスパナが飛んできて、見ていた私の眉間と目の間あたりに当たってしまったんです。メガネが吹っ飛んで、血がダラダラ流れて、親父がびっくりして、泣かんばかりの勢いで病院に連れて行ったんですが、眉間でも目でもなくその間の骨の上に当たったので、5針塗っただけで済みました。

ーーす、すごい。

藻谷 結果はすごくなかったんですが、眼に当たったのかと思ったので、「目が潰れたら、片目の子供という個性をどう活かすと売れるかな?」とか、病院に運ばれながら考えていたんです。つぶれてなかったのでちょっと残念という(笑)。

ーーそういう引いた目を持てるのが、本当にすごいですね。

藻谷 コロナもそうなんですが、死ぬと言って騒いでいる人の気持ちがよくわからないんです。人間は死ぬに決まっているだろうって(笑)。痛いのは嫌だけれど、がんなどに比べたらコロナは痛くもないし、再発もしない病気ですよね。
 3人に1人はガンで死ぬわけですから、引き算で考えたら、コロナで死ぬほうがラッキーという考え方もあるぞと思うんですね。

ーーもともと日本人って、いまよりも腹が据わっていたので引き算の発想が自然とできていたと思うんですが、いまは教育などで頭で考えることのほうが重視されていますよね。頭で考えるばかりだと、引き算ができない。「死んだらどうしよう?」とか不安がどんどんと肥大化していくように思うんです。

藻谷 私も小学校の半ばくらいまでは死は怖かったですよ。3年生くらいまでは「死んだらどうしよう?」「親が死んだらどうしよう?」ってよく考えていましたが、4年生くらいから、「どうせ死ぬのであれば、どうやって死んだらかっこういいだろう?」というふうに妄想の方向が変わっていって。

ーー4年生の頃にですか?

藻谷 これって、じつは特攻隊的な発想で、命を過大に考えるから死ぬとまわりに影響が与えられると考えるわけですよね。その意味では、特攻隊は、命を軽んじているのではなく異常に過大視していると思うんですね。命を捨てるのだから勝てるだろうと。しかし、実際には命にそんな超自然の力はありません。
 特攻隊の発想は生贄と同じです。弥生人の発想とも言えますけれど、それを国を挙げて真面目にやったのが戦時中の日本だったんでしょう。要は、弥生人の発想がいまもずっと残っているわけです。他には「穢れ」とかね。

日本人の共同主観は弥生時代につくられたのでしょう

ーー日本人は、縄文人と弥生人のDNAをともに受け継いでいますが……、藻谷さんはどちらかというと縄文人ですよね。プリミティブというか、大地にどっしりとグラウンディングされた感覚がおありだと思います。

藻谷 ありがとうございます。どちらかといえば縄文人ですよね。ですが、(縄文人にはなかった)穢れ意識というのも、自分にはすごくあるなと気づいたんです。それまでは馬鹿にしていたんですけれど……。

--藻谷さんがですか?

藻谷 カンボジアの首都のプノンペンの都心に、ポルポトが大量虐殺をやった刑務所跡(キリングフィールド)があるんですが、そこの展示があまりにおぞましくて……。(施設から)出てきた時、「早くシャワーを浴びないとこれは耐えられない」と思ったんです。(日本神話の)イザナギみたいに……。

ーーああ。黄泉の国から帰ってきて、穢れを払うために川で禊をしたような?

藻谷 ええ。それに対して、オーストラリア人のカップルは笑っていたんです。(施設内に)「笑うな」というポスターがあちこちに貼ってあって、「誰がここで笑うんだよ」と思っていたら、笑っていたんですね。
 たぶん、あまりに恐ろしいから笑ったと思うんです。感覚を取り戻すために談笑したわけです。ですが、こっちはそれどころではない。「まじか、ここで笑っている。そんなことしたら穢れが口から入るぞ!」……これは、弥生人感覚ですよ。笑うことで跳ね除けようという感覚ではなく、笑ったらとりつかれるぞという。

ーー確かに日本人だったら笑えないし、笑うと不謹慎だと感じますよね。

藻谷 カンボジア人はというと、純粋な小乗仏教徒だから、人は死んだら滅するものととらえていて、全然穢れ意識がないようなんです。だから、街の真ん中に(施設が)平然とあるし、係員は平然として、普通にそこにいるわけです。「いやあ、俺は日本人だぜ」ということを再認識させられましたね。

ーー確かに、日本人は穢れ意識が「共同主観」になっていますよね。

藻谷 「共同主観」、つまり、皆が無意識に共有するフィクションになっていますよね。まあ、なってはいますが、もちろん肌感覚ではイヤであっても、理屈でそれがイヤというわけではないですよ。

ーー理屈ではおかしいと思っていても、肌感覚でイヤだと思ってしまう……そうした意識の集積が共同主観ということですね。

藻谷 人間は感覚が理屈に優先するものなので、共同主観として確立されると、明らかにおかしいものでも空気、常識になってしまいます。ちなみに、言語が違うと共同主観も異なります。同じものを見ても、日本人とオーストラリア人とカンボジア人では、肌感覚で感じるものに違いがある。

ーーたしかにゾーンから外れると感じなくなりますよね。

藻谷 (穢れ意識の)由来を言えば、感染症とかがたまにやってきて蔓延する、湿気の高い島国だったから起こる感覚だったと思います。

ーーはい、たまに起こるから穢れと感じるようになったのかもしれません。そもそも、縄文の頃はパンデミックはなかったですよね。

藻谷 なかったでしょうね。外部から人がほとんどやって来ないですから。弥生になってから結核が起き、天然痘が起き、麻疹が起き……違う民族集団が違う病気を持ち込んでくることで、穢れ意識が生まれたんでしょう。

ーー穢れ意識の影響が大きい一方、共生社会が長期にわたって続いていた縄文のメンタリティーも、遺伝的に大きいと言えますよね。

藻谷 ええ。他人を警戒しないところなどは、まさにそうでしょうね。コロナ禍でも、外国人を穢れのようにみるのは弥生人そのものですが、かといって暴力沙汰は起きないし、マスクなしで騒いでいる外国人に注意することなどもしない。縄文的なものと弥生的なものがミックススしたのが日本でしょう。

ーー共同主観からはなかなか逃れられない面があるので、いかに客観視するか、自覚するかという点が問われますね。

「サピエンス全史」は共同主観について語った本ですね

藻谷 私は小さい頃から落ち着いていたと言いましたが、その一方で、集団から抜け出したいという思いも強く持っていたと思うんですね。学校に毎日定時に行くのは耐えられない、教室や会議から早く抜け出したい、ミッションがない場でまでダラダラいっしょにつるんで行動するのは許して、というような(笑)。

ーー動物も集団行動はしますが、それとはまったく別ですよね。おなじ空気の中に同化しようとする意識と言いますか……。

藻谷 脳の一部、感情の一部を共有しているような感覚、それが共同主観なんですよ。正誤の判断基準が、自分で確かめたかどうかではなく、論理的にそのように推論されるかでもなく、世の大勢が何と言っているか、世の空気はどうなっているか、になっている状態。これが共同主観にどっぷりはまった状態です。

ーーつまり、そういう共同主観から抜け出したいと思ってきたんですね。

藻谷 共同主観に関していうと、最近、『サピエンス全史』にそうしたことが書いてあると聞いて、読んでみて、「これだ!」と思いましたね。
 著者の(ユヴァル・ノア・)ハラリは、「虚構の共有」こそが人間を他の生物に勝らせた最大の要因だと書いています。その共有される虚構のことを「個人主観とは別の、集団に共有される主観」、つまり、共同主観だと書いた箇所もあります。ハラリは、ヘブライ大学の教授で同性愛者だと言われていますが、同性愛を禁ずる三大一神教が聖地とするエルサレムに住んでいるがゆえに、宗教という強烈な共同主観と、同性を好きになる生まれつきがあるという現実の、ずれに気がついたんだろうなと。
 ただ、日本でもあれだけ売れたのに、読んだ人が共同主観について語っている場面をほとんど見ない。そこを読まずにどこを読んだのでしょうか。

ーー明らかにそう言えるはずなのに、あまり目が向けられないわけですね。

藻谷 共同主観の同調圧力に浸りきってしまっていて、その外側から存在に気づくことができないのでしょう。普通の人が気圧を感じないのと同じことです。
 インテリや言論人も、共同主観の塊であることが普通です。たとえば、漫画に『カムイ伝』ってありますよね? 共同主観的には「学生運動のバイブル」とか言われていますが、じつはものすごく現代的で、ジェンダーフリーの話なんですね。昭和の時代に、(白土三平という)男性が描いているにもかかわらず、いろいろなタイプの女性が出てきます。続編にあたる「外伝」や、平成になって描かれた第二部では、その方向がさらにはっきりしていますね。

ーーなるほど。そういうとらえ方が。

藻谷 とらえ方ではなくて、素直に読めばそういう内容です。極端にカリカチュアライズされた身分制度を設定し、そのなかで各自の個性を持つ男女はそれぞれどう自分を生きるかという思考実験をやった話ですね。それを「唯物史観に基づいた社会運動論」だと、話の大半を端折って狭めて見ることこそ「とらえ方」、つまり共同主観なのです。『サピエンス全史』の読まれ方もまさにそうで、共同主観に支配された文化人の本の読み方は、本当に信頼できない(笑)。

ーー共同主観の問題が共有されていない限り、何をどう書いてもその枠組みのなかで類型化されてしまう気がします。

藻谷 共同主観の世界では、物事は、共同主観と個人主観に大別されてしまいます。「みんながそう言っている」か、「一部の人ないし一個人がそう言っているだけ」か、という区分になってしまい、そこには「何が事実で、何が間違いか」という、客観的な正否の判断は入り込む余地がありません。
 京都大学の元総長で地震学者の尾池和夫さんが、「南海トラフの巨大地震は、高い確率で2038年に起こる」と指摘していますが、その話をすると「そうなんですか、そういう主張があるんですか」と返されたりする。ですが、「主張する」というのは主観を語ることで、学術研究結果という事実を語る行為に対して使うべき動詞ではありません。
 だから、私は「指摘している」と言ったのですが、事実の「指摘」と主観の「主張」を混同するのは、共同主観の世界に生きているの人の共通点です。

ーータイトルだけだと「大予言」みたいなイメージがありますが(笑)、そこにはちゃんと明快なロジックがあるわけですね。

藻谷 オカルト信者は共同主観に染まっているわけですが、科学的なものまでをもオカルトだとしてしまうのも、反対方向のようでやはり共同主観です。
 名探偵ホームズの生みの親のコナン・ドイルは、息子が第一次大戦で戦死して以降、降霊術にのめり込んでいきました。「あれだけ理知的な人でも晩年は、死んだ息子に会いたい余り理性を失った」と論評されますが、本当にそうなのでしょうか。
 脳科学や遺伝学が進んだ現在は、死んで脳組織が分解され、DNAも消滅すれば、脳内の電気信号である本人の意識は消えるものと理解されています。ですが、ドイルの時代にはまだそこまでわかっていなかったわけで、彼は真剣に科学的に、降霊術の可能性を探求しただけだったかもしれません。
 ハラリは、「300年前にデカルトが無知という概念を発見したことで、科学革命がもたらされた」と書いていますが、「わからないことは、きちんと検証しなくては否定も肯定もできない」というのが、まさに科学の基本です。世間の常識のもとに「それは科学的ではない」と否定するのも、じつは科学ではなく、共同主観のなせる技なのです。

「空気を読める人たち」にずっと苦労してきました

ーーオカルトだから信用できないと決めつけずに、まだ検証されていないものについては、先入観なくじっくり検証していく姿勢が大事だということですね。藻谷さん自身は、共同主観に影響されないのですか?

藻谷 私は、どうも生まれつき共同主観を感知できない体質なんです。要は、自閉症スペクトラムの傾向があるわけです。知り合いの精神科医に聞いてみましたら、「その気はあるが、病気のレベルを10としたら1くらいだ」と。それでも世の空気が自然には感知できないので、ずいぶん苦労してきました。

--病気でなかったとしても、苦労はしますよね。

藻谷 正確には、空気が読めないことよりも、読める人たちの一貫性のなさに苦労してきました。昭和20年も、明治維新もそうですが、空気はくるくる変わるのです。共同主観に支配された人の意見は、上下左右にぶれます(笑)。
 とりわけ女性は、個人差を無視した一般論でいえば、言語的コミュニケーション能力が高いじゃないですか。そのために、同じ言語空間の中にある共同主観に、囚われやすい人が多いですね。お受験に熱中したり、流行も随時取り入れていたり。もちろん個人差は集団の差よりもずっと大きく、妻は私と似た者どうしなのですが、そうなると今度は夫婦そろって世の中からズレていきます。

ーー共同主観は「思考」よりも「感情」がメインになるので、ロジックでは崩れにくいところがあるように感じます。

藻谷 ロジックではないと思いますよね。ただ、アリストテレスの言っていた「ロゴス」「パトス」「エートス」でいえば、共同主観はエートスなんです。ロゴスは論理、パトスは感情、それに対してエートスは、感情と言えば感情なんですが、「理屈としてはわからない、感情的にもあまり好きな話ではない、けれども、あの人の言うことなら信じる」という発想です。
 ロゴスではないという意味ではパトスに入れてもいいのかもしれませんが、アリストテレスの区別はやはりなかなか奥深いものがあります。納豆は臭いからイヤだと感じても、「体にいいから食べよう」と言われればそう思いますね。ましてや親だとか、栄養学者に言われれば。でも、それは主観を共有しているだけで、自分で確かめているわけではない。納豆は科学的にも体にいいですが、過去には水銀を薬だと信じて飲んでいた場所や時代もあったわけです。
 私たち人類は、「信ずべき他人が、こうだと思っていることを自分も信じる」ことで、この40万年くらいを生きてきたわけなんです。エートス=共同主観が、人間の絶対的な判断基準なんです。

ーーまさに人類は共同主観とともに歩んできた、生き延びるために共同主観を生み出してきたと言えるんですね。

藻谷 40万年の最後、せいぜい300年前くらいにデカルトが「無知」を発見し、知らないことは調べて推論せねばならないと気づきまして、つまり「ロゴス」が復活したわけですが、人の思考の構造はそんなに短期に変わるものではありません。

--それゆえ、共同主観がいまも社会全体を覆っているという……。

セルフメンテナンスも「蓋然性」が大事ですね

藻谷 これまで7000回以上講演してきて、毎回ありとあらゆるところで「今日は面白いものの見方を教わりました」と必ず言われるんですが、これってロゴスを語っている者としてすごく腹が立つわけですよ(笑)。
 私としては、事実として蓋然性が高いことを、どの方向から見ても客観的な数字を示して話しているのですが、それが「ものの見方」、つまり、主観にされてしまう。共同主観に浸っている人にとっては、皆の言っているのが正しいことで、それと違うことは「個人のものの見方」、つまり、個人主観にカテゴライズされてしまうんですね。しかも、本来ロゴスで考えているべき学者のほうが、むしろそういう傾向があります。

ーー頭の良し悪しとは違う基準ですよね。セルフメンテナンスに関しても、そのあたりはまったくおなじだと感じます。

藻谷 心身の状態は人によってこれだけ違っているから、〇×で考えるのではなく、蓋然性の高いやり方を探って、その人に合ったやり方を見つけていきましょうということですよね。最初の自己紹介でそのあたりを話されていたので、「この方々は蓋然性という概念を理解している」と、安心してしゃべっているんですが(笑)。

ーーありがとうございます。本当に蓋然性が大事だと思うんですね。

藻谷 エートスは、「あの人が言えば正しい、この人が言えば間違い」という発想です。○か×かの二分法で考えるお受験文化ですとか、先生が言うことに黙って従う徒弟制度的な学界の慣行と、なじみがいいものです。しかし、そのなかに浸っていると、先生の言っていることはどのくらい確かなのか、どの程度不確かなのか、という蓋然性の議論に入っていけません。そもそも、個人個人の体って、〇×も決まっていなければ、誰か完璧にわかっている先生がいるわけでもない。

ーー○×式でやっていたら、はずみでうまくいくことはあっても、いちばん肝心なところにはアプローチできないですよね。どちらでもないグレーゾーンに、ほかならぬ自分自身を知るカギがあるはずですが……。

藻谷 共同主観というのは、万事を「みんなのものの見方」と「個人のものの見方」に二分してしまう発想なので、そこにグレーゾーンはありません。「どこかに全部知っているやつがいて裏で操っている」という発想にもなりやすい。誰か完全にわかっているやつがいると思うから陰謀論が出てくるわけで……。じつは誰も全部などわかっていないし、世の中ははずみで動いているものだという前提を持つべきでしょう。

ーー「わからないことが世の中にはある」という視点とは逆ですね。

藻谷 「わからないことだらけのなかに一部、蓋然性の高低がわかることもある」くらいに謙虚に考えなくては。死んだらどうなるかすらわかっていない。ですが、人間も動物だから、猫が日々顔を洗って生きているように、明日死ぬにしても今日を楽しく生きるというのが本来のスタートラインだと思うんですね。
 ルールというものは、いきなり殺されたり、爆弾が落ちたりして死んだりしないようにするために、「これだけはやめよう」という形できているものです。ですが、何が正しいか、自分は何をすべきなのかについてまで、いちいち取り決めたルールはない。何が正しいかはルールに聞かず、自分で見つけてくれという話なんですね。

ーーそれもそのまま、セルフメンテの発想とおなじだと感じます。そもそも、「蓋然性」は、よく使ってきた言葉ですし……。

藻谷 共同主観や蓋然性という言葉が通じるというのは、本当に嬉しいことですよね。共同主観に浸っていると、何を(What)、何のために(Why)しなければいけないのか? ということは自明のように思って、ものを考えなくなります。
 たとえば、「コロナを予防すべきなのは自明」と思い込むわけですが、仮に自分の子どものことを考える場合には、未成年の死者は未だに0人なのですから、いまのうちにかかって免疫を得ていたほうが、子どもの将来のためにはいいかもしれない。と言っても皆さんまったく納得してくれないのですが、おたふくかぜや風疹なら皆さん子どものうちにかかることを歓迎するでしょう? なぜコロナと風疹を区別するのか? 「共同主観では、区別するのが当たり前だから」というだけですよね。
 そして、どうやったらコロナを予防できるか(How)だけを、これまた理屈ではなく、「世間では何と言われているか」ということから〇×で判断する。その結果、アクリル板やマウスシールドと言った、エアロゾル防護効果のないものを堂々と使ったり、無意味な机の消毒をしたりする。
 明治以来の教育は「How」の暗記を求めるもので、「What」や「Why」を考えさせてこなかったわけですが、その副作用がもろに出ています。セルフメンテナンスの世界でも、「How」だけを聞いてくる人が大量にいるでしょう?(笑)

ーーそもそも、本は「How」でできていることが多いので(笑)。僕自身、その行間とか、それを超えたところがキャッチできるようにつくってきたつもりなんですが、それでもやっぱり、「How」を聞いてくるんです。

藻谷 本を読んで理解する人なんて、そんなにいないですよ(笑)。逆に、「なんでここまで誤読するの?」ということばかりですよね……。

起きたことを逆算することで仮説が検証できるんです

ーー蓋然性という感覚がないのかもしれませんね。だから、藻谷さんの話されることは藻谷さん個人の主観だと思って、ジャッジしてしまう。

藻谷 まさにそうですね。もともと人間の脳の構造は○×式になじむようにできているので、多数の主観と、個人の主観と、二分法で考えてしまって、どちらがより事実に近いのかなんて考えないわけです。日本でこれだけ○×式の試験が普及したのも、蓋然性の濃淡を考えない人が多いからでしょう。

ーーSNSで何か書こうと思っても、いろいろ調べるべきことが出てきて、うかつなことは書けないなと思ってしまうんですけど。

藻谷 〇×を断言する人がネットには多いですよね。そうではなく、蓋然性の高いことを、そう判断する理由を付けて書くべきなのですが。

ーーなぜそうなってしまうんでしょうか?

藻谷 蓋然性の程度を論じることができず、〇×に走るのは、皆が言っていることに対して反証を探す稽古をしていないからです。証明できずとも、反証のあることは蓋然性が低いし、反証の見つからないことは蓋然性が高い。そうやって、実際に起きたことから仮説検証することを、学校で教えていないのです。

ーー起きたこと、つまり、事実をベースにするということですね。

藻谷 その通りです。そして事実は〇×ではなくもっと複雑なので、真剣にいろんな情報を集めなくてはいけない。でも、いまの時代、現実に起きている事実への興味があまりになさすぎると思うんです。たとえば、戦国時代とかのトリビアには注目が集まるのに、現代史や地理には関心が薄いですね。
 そんなトリビアの一つに、織田信長の部下に弥助という黒人の大男がいたという話があります。アフリカ東部に、大航海時代にポルトガル人が根拠地にしていたモザンビーク島という島があるのですが、彼はそこ経由で日本に来たんですね。

ーーああ、本能寺の変の時も一緒だった……モザンビーク出身だったんですね。

藻谷 モザンビーク島出身の黒人が、外国人で初めて日本の武士になって、かつ、本能寺の変後も生き延びて……確かにとても面白い史実で、映画化もされるという話ですが、この話に興味を持つ歴史ファンのほとんどが、東アフリカにあるモザンビークという国のいまには、関心を示しません。
 遣欧少年使節も、ローマへの行き帰りにモザンビーク島に滞在していますが、日本と欧州をつないだ要地だったそんなところが、いまは世界最貧国の一つです。なぜモザンビークは要地になり、そして衰退したのか? ネットには弥助のことはいろいろ書かれていますが、モザンビーク島のいまに関する情報は少ないですね。

ーー言われてみると、表面的なことばかりに目が向いてしまう気がします。

藻谷 みんな、地理的なことにあまりに興味がないと思うんですね。弥助というモザンビークから来た黒人が日本の武士になったことにも、当時の地理からみて必然性があったわけですよ。ですが、歴史を地理と切り離して人物史だけで論じるのが、日本では当たり前です。
 だから、地理の本って売れませんよね。自分が書いたなかで100年後に評価されるのは、そうした本だと思っているんですが、全然評価されない(笑)。世界旅行記を4年間もウェブに連載してきたのですが、PVが上がらないので、とうとう打ち切りになってしまうんです。

--そうですか。僕は『フードジャーニー』という本を5年がかりでつくってきたので、無茶苦茶ストライクゾーンな領域なんですが……困りましたね(笑)。でも、関心がないのはわかるような気もします。「非日常の多様性」とでも言えばいいでしょうか? そうした日常にはない空間とつながっていくことも、僕にとってはセルフメンテナンスの一部なんです。この地球に生きているという感覚も心身の豊かさに接合しますから。

藻谷 そうです、そう思うんですよ。

ーーモザンビーク島のことは知りませんでしたが、面白そうですね。

藻谷 いま、世界中どこでもスマホを使っていますが、モザンビーク島に行ってみたら、まだ持っていない人が多かった。子どもが物珍し気に寄ってきて、話しかけてきたりしました。
 ですが、スマホを使い出している場所では、もう子どもが寄って来なくなるんです。水道も電気もつながっていないような状況で、スマホで世界を知ってしまった子どもたちは、何をどう感じているのか? 立ち入っていったら面白いだろうなあと思うんですが、できていません。

触覚を蘇らせることが「里山資本主義」の第一歩

ーー藻谷さんの本がベストセラーになって以来、「里山資本主義」という言葉をいろいろな人が使うようになりましたが、どこかフワフワしていて、観念的なきらいがあって、じつはちょっと違和感があったんです。でも、当事者である藻谷さんとお話しして、「里山資本主義」も蓋然性のなかから生まれてきたことが実感できました。おそらくそうだろうなと感じていた部分がつながって、生きた言葉になった気がします。

藻谷 蓋然性で言ったら、経済が一方的に成長するはずはなく、循環再生するに決まっているでしょうということですよね……。

ーー去年(2020年)、『進化する里山資本主義』という本も出されていますね。

藻谷 『里山資本主義』はエネルギーの話が多かったのですが、続編のなかの私の寄稿部分では、エネルギーに加えて「人口の循環再生」の重要性を強調しました。日中韓台で深刻に進む少子化は、つまり人口の再生の失敗なのです。多くの途上国ではまだ人口爆発のほうが深刻なので、この話はSDGs(持続可能な開発目標)にも書かれていません。でも、いずれ世界中で問題になるでしょう。その大きな原因のひとつは、「触覚」の軽視なんですね。

ーー触覚?

藻谷 子どもができるのは、触覚の快感を追求する結果です。少子化は、視覚や聴覚だけを優越させ、触覚を軽視するデジタル文化のなかで拡大しているのではないでしょうか。ですが、触れ合わずに2次元の世界で性欲が満たされるというのは、あまりにおかしい。これは生物種としての……日本という生息地における人間という生物種の病気だと思います。自分でやってみないで、知識だけでテストで点を取る傾向も、同じ病気の症状です。

ーー僕たちの言葉では、触覚は身体感覚になりますね。

藻谷 そう、身体感覚です。養老孟司先生は、触覚は視覚・聴覚と同じく、大脳皮質に直結したじつに繊細な感覚で、であるがゆえに点字でも、読む字と同じように複雑な情報を伝達できるとおっしゃっていました。大脳皮質ではなく記憶野につながっている嗅覚や味覚では、それはできないと。そのような触覚を作業のなかで鍛えることをせず、読んで聞いて話してばかりいると、大脳の発達に偏りが出るのではないでしょうか。
 さらに言えば、日本の学校教育は文字情報に偏って、画像情報や空間情報を軽視している。つまり、視覚、聴覚のなかでも右脳的なものが軽視されているわけです。右脳の活性化、身体感覚の復活・強化が、皆さんのテーマだと思うのです。

ーー「自分らしく」という言葉はよく使われますが、それだけでなく「人間らしく生きる」みたいなところを伝えていきたいと感じます。

藻谷 ああ、「生き物らしく生きる」ということですね。

ーーはい、まさに。「生き物としての自分」に目覚めることが、「自分らしく生きる」ことの第一歩かなと思います。

藻谷 僕の場合、身体感覚と言っておきながら、脳の機能が言語に偏った人間です。とめど尽きせず言葉が出てきますが、体の動きがうまく調整できない。
 ですが、左脳ばかりを使っているわけではなく、ある種の霊媒能力と言いましょうか、相手が内心で思っていることを右脳で直感して、左脳に伝達し言語化することもできるようなのです。今日もそういうわけで、皆さんの考えを直感で感知して、自分の考えのようにして口にしているところがあるかもしれません。

人にわかるように伝えるのが僕の仕事です

ーーただ、そのあたりはスキルの部分で、身体感覚はもっと共有しなければならないベースの部分、それが欠落しているところが問題なのかなとも思います。

藻谷 確かに身体感覚の共有はないですね。

ーーだから、そうした共有感を取り戻すことで、スキルが高い人はより能力が発揮できるし、スキルが高くなくても自分らしく生きられる、自己肯定感が得られ、幸福度も高まっていくのかなと感じるんです。

藻谷 身体感覚を共有する……ダンスチーム、あるいはサッカーチームなんかもそうかもしれませんが、言語に変換する前に身体感覚を共有して動いているわけですね。なかなかその境地には達しませんね。とはいえ、NPO的に、あうんの呼吸で補い合って物事を進めていくことは多く、確かにその場合、集まって場を共有したほうが話は進みますね。

ーーはい。この身体性のベースをどうつくるかというところで、潜在的な部分も含めて、いまローカルとかサステナブルが注目されていて、そこに心身を整えるセルフメンテナンスがつながってくるというのが僕たちの理解なんです。この接合する部分で、藻谷さんとジョインできるところがあればいいなと。

藻谷 セルフメンテナンスと、ローカルな社会での場の共有はつながっているわけですか。

ーー社会と身体をつながる感覚って、なかなか伝わりにくいところがあって。でも、ここを共有していかないと、身体性なんて言っても自己満足でしかなくなるので。自己と社会がつながることで人生が動き出すと思うんですね。

藻谷 誘われたことに引き込まれて、どんどん時間がなくなっていく……引き算ということでは、私はお金や友達で困ることはなくて、時間が唯一の制約要因なので、議論とか言葉が必要な場面があったら、そこに限定して使ってください(笑)。
 人にわかるように伝えようと悪あがきして玉砕するというのが、僕の仕事ですから。いくら伝わらなくてもめげないですし、ふられてもふられても、失敗しても失敗しても、アホだ、馬鹿だと言われても、相手を説得するのは嫌でも何でもありません。

ーーやっぱり腹が据わっているんですね、藻谷さんは。

藻谷 説得はしないけれど、真実は語る人はたくさんいますが、私の場合、真実を語っているかわかりませんが、説得はします(笑)。インタラクティブ(双方向)な感じで、ぜひおつきあいください。

--もう時間ですね。今日はありがとうございました。

(前編はこちら

藻谷浩介 Kosuke Motani
日本総合研究所主席研究員。1964年、山口県周南市生まれ。東京大学法学部卒業。米コロンビア大学経営大学院で経営学修士(MBA)取得。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)を経て、2012年から現職。平成合併前3200市町村のすべて、海外114か国を私費で訪問。地域特性を多面的にわたって把握し、地域振興、人口減少問題、観光振興などに関し、精力的に研究・著作・講演を行っている。
主な著書に、ベストセラーになった『デフレの正体』、『里山資本主義』(ともにKADOKAWA)、『世界まちかど地政学〜90カ国弾丸旅行記』(毎日新聞出版)、『観光立国の正体』(新潮社・山田桂一郎との共著)、近著に『進化する里山資本主義』(ジャパンタイムズ出版)、『東京脱出論』(ブックマン社)などがある。