「共通点があっても、まず世界観がなければね」(栗本慎一郎インタビュー2−②)
『栗本慎一郎の全世界史』、その刊行を記念して著者・栗本慎一郎先生への著者インタビューを公開します。本書で書き尽くせなかった「行間」を少しでも感じとっていただけると幸いです。ロングインタビューになったため、3回に分けてお送りします(長沼敬憲)
――(前回のインタビューで触れた)蘇我氏のルーツなんですけれど、要はユーラシアの遊牧騎馬民のグループだった……。
栗本:北方ユーラシア騎馬民、でしょうね。当然、原始的な人たちじゃなくて、政治体制もあるし、思想、価値観もある、宗教ももちろん持っている。
そういったなかで、わりに中心的な役割を果たした人たち、つまり流浪の民なんかじゃなくて、ひょっとしたらパルティアの皇帝とつながっているような人たちが、北満州の扶余を通じて日本にやって来た。……こう推測しているんです。
――全世界史のキーを握っていたのは、そういう遊牧民であったということですよね。
栗本:そうです。
――本の中には、パルティア、カザール、キメク……、北満州のシァンピ(鮮卑)、フヨ(扶余)などもそうだと思うんですけど、そうした世界史のキーワードになる国がいくつも出てきます。
個々を断片的にいろいろ調べられていくなかで、これらが一つにつながっていったわけでしょうか?
栗本:そう、僕の頭の中ではね。ただ、そういう思考をしていって、だんだん明確になったというのはちょっと違います。
――ああ、弁証法的じゃないんですね。
栗本:例えば、ユーラシアではキルギスが文化的中心の一つだと思うんだけど、これは理論的に割り出したんじゃなく、キルギスに行った時、「聖方位」を見つけたわけ。しかも、キルギスの極めて重要なお城の一番中心の部分で……。
そういう場合、理論的に「あるんじゃないか」と探している部分もありましたが、向こうから飛び込んできている部分もある。正直に言うとそういうことです。
――今回の本の内容って、世界史に興味がある人でも知らないことのほうが多いと言うか、先ほどのパルティアやカザールにしても、ちょっと話しだけで皆びっくりする人が多いんです。本当にそんなにすごい国が存在していたのかって。
栗本:勉強しなさい。そもそもカザールを知らないなんて……。
――キメク汗国に至っては、ほとんど日本国内に資料すらない。
栗本:英語でもほとんどない。あるのはロシア語です。タタールスタンという国がロシアの中にあるんですが、そこにはちゃんと(キメクについて研究をする)考古学者も、歴史学者もいる。彼らのなかでは、キメクはタタール人の国だということになっている。違うと思うけれどもね。
――そのあたりにアプローチすれば、もっと深い事実が出てくる可能性は?
栗本:向こうへ行って研究すればたくさんわかると思う。
――今までキメク汗国という名前を知らない学者も多かったんじゃないですか?
栗本:バカ歴史学者は知らないんです。でも、絶対重要なの。それがなければ理解できないの、世界史の本当のことは。
――最近、岡田英弘さん(東京外国語大学名誉教授)の世界史と共通点があるという声を聞きますが、先生としては?
栗本:共通点はあるけど、あの人たちは部分的でしょう? 自分のやっているところを本当はもっと中心だと言いたいだけ。でも、そういうことじゃないんですよ、私の言っているのは。実際、中心的なんだけど、まず世界観を持っていないとね。
――そうですね。世界観とは、生命論という言葉に置き換えられますよね。社会が生命体であるという……。
栗本:(そういうものが)全然ないわけだ。だから比較しないでもらいたいです。モンゴルが中心的だった、北方遊牧民がすごく大きな役割を果たしたということは、それはそれでいいけど、だから似ているとは言ってもらいたくない。
――生命論的な視点のない人に、似ているとは言ってもらいたくない?
栗本:そう。だって直接会ったことはないけど、たぶんヨーロッパ近代史とか、帝国主義はわからないと思う。だから、自分のやっているところが日本の古代史、それから現代史にも関係あるということを、彼らはまず勉強すべきでしょう。ヨーロッパの近代史、帝国主義とは何か、金融資本とは何かということもやるべきだ、本当は。
生まれてからモンゴルのことだけ勉強しに来たわけじゃないでしょう? 自分のネタにしているところをいいんだよ、という話はつまらない。
――そうですね。でも、学問の構造がそうなっちゃっていて。
栗本:だから枠組みとしては、全然古いものなの。残念ですが、僕が馬鹿にしている歴史学です。だから、(似ているという人は)ちょっと言ってるだけなの、本当には比較なんかしないでね。(岡田さんは)別に無能な人とは思わないし、仕事はそれでいいと思うけど。
■やっぱり時間がないという思いがある
――以前にもおっしゃっていましたが、既成の学問で同じような発想で歴史を捉える人というのはほとんど見あたらないと?
栗本:いないと思いますね。少なくとも僕は知らない。
――先生のところで学ばれた人なかには、大和(雅之)さんとか、伊勢(史郎)さんのような学者の方もおられますが、どちらも専攻している分野が違いますよね。文系ではなく理系ですし……そういう違う分野に、似た発想をする人はいるかもしれない?
栗本:まあ、社会が生命である…ということをどこまで理解しているかが重要なんですよ。
――どうしたら深めていけますか?
栗本:現実的な問題を言うと、一つはそれじゃ食えない。僕みたいに仕事をしても、普通は(学者として)食えませんからね。僕だってそれであんまり食ってるとは思えない(笑)。マイケル・ポランニーと同じですよ。
彼は化学でノーベル賞をほとんどもらえそうだった。(打診があった時に)だいたい「もらう」と言うんだけどさ、「いらないから、言語哲学の教授にしてくれ」と言って、全然関係ないところに行った。言語哲学は難しくて誰もわからない。
――それをちゃんと理解できる人はほとんどいない?
栗本:まだいないかもね。要するにマイケル・ポランニーは自分のやっている化学の問題と、言語哲学とは同じ問題で考えている。でも、さっきの話と同じで、「マイケル・ポランニーとヴィドゲンシュタインは近いところがありますよね」というバカな奴がいる。
この違いがわからなかったら、もう何もわからない。全然違うんですよ、ガイア論と栗本史学が違うくらいに、違うんです。でも、よく誤解するね、皆。真剣に考えていないから。
――僕がおもしろいと思ったのは、先生はご病気をされて、それで血栓や糖尿病の問題もご自身で調べられて……。たとえば、酵素の働きなども、全部つなげて生命論として捉えておられるじゃないですか。
栗本:それはあるね、絶対に。
――生命論の幅がすごく広いと思うんです。すべてをつなげ、同定させているというか……。
栗本:(病気ということでいえば)やっぱり時間がないという思いもある。ゆっくり研究して、弟子もゆっくり育ててと、そういうふうには考えられなくなった。前からそういう傾向があると言われていたけど、「やたら急いでいる」とね。
この本だって、自分が80歳まで生きるのは無理だろうと、そういう自分の意識の中で書いたんです。90歳まで生きると保証されていたら、ちょっと順番は変えたでしょうが。
――先生としては、これから絶対出さないという意味ではなくて?
栗本:出せないだろうということです。
――ご自身が最低限語っておきたいことは、これで出せたと?
栗本:そう思います。歴史哲学についてはもっと言いたいこともあるけれど。あるいは、もっとヘーゲルはどうなんだという議論とかね。そういうことをやったほうが、親切といえば親切です。
それはやれませんが、そういった一つ一つをつなぎ合わせていった結果、世界の歴史はどういうふうになるんですか、ということを書いているということです。
■2つの文化がぶつかりあったことが重要
――もう少し質問します。例えば、今回の本には、蘇我氏的なものが日本に北方から入ってきて、それが日本の歴史にすごく影響を与えた、起爆剤になったと書かれています。その要素というのは、現代に残っている、継承されているのでしょうか?
栗本:いや、そういう考え方が間違いなの。蘇我氏的なものがいまどこにあるのか、それは関係ない。蘇我氏が来て、一番大きな影響を与えたのは、それまでの主流派に反して自分たちが主流派になって、(大化の改新が起こって)そのうえでまた反主流派になっちゃった。
その結果、ヨーロッパと同じように、異端VS正統という2つの文化のぶつかり合いが日本に生まれた。これは今でも続いています。蘇我氏的なものがなんだかんだというのは、二の次の問題。
――なるほど。遊牧民の感性やマインドがどう、という話ではない?
栗本:違う違う。だいたい、蘇我氏と言ってもたくさんいるんじゃないんだから。2つの対立的構造、内部に外部があるという構造を作った。ヨーロッパでそれはキリスト教。日本では(蘇我氏に象徴される)ユーラシア騎馬民族の考え方がそれを作った。
――日本の社会にその遊牧民的なものはないんじゃないか、というような声もあったので。
栗本:それはおかしいよ。そもそも、遊牧民というのはあんまり戦闘的じゃないんです。戦闘自身は強いかもしれないけど、必ず相手の立場を認めて、連立したり、連合したりする。そういう傾向は日本で非常に強いでしょう?
――ああ、いわゆる和の感覚ですね。
栗本:そう。それは言える。でも、そこがポイントじゃないんだよ。そういうことを言っているんじゃない。日本社会の特性にA対Bという対立構造があって、それがヨーロッパ社会と共通している……。
――その構造を作ったとキーとして、蘇我氏の位置付けが重要だったということですね。
栗本:そうです。たぶんそれ以前にはないんです。全然違う文化だったら勝つか負けるか、殺すか殺されるかだけど、蘇我氏が入ってきた時に彼らは一度主流派になるでしょう。その時にそうしたことができなかった。象徴として天皇制を置いたから。だから、天皇制が存在することの意味が騎馬民族のなかにあるんです。
――原型がそっちにあるということですね。
栗本:これも皆わからない。天皇制論というと、搾取の構造だとか言いやがって。
――そうですね、戦後の歴史学は、だいたいそういう左翼的なところがありますね。
栗本:そう。そういう発想自体が間違っている。そんなところから見るな。
――天皇制の意味論自体も、根本的にもう一度見直さないと、本質が見えてこない。
栗本:もちろん。(本の中で)そんなふうに言ってはいないけれど、当たり前だろう。天皇制の宇宙観が遊牧民の宇宙観ですよ。
――先生の中で、縄文時代とか、日本国になる前のプリミティブな日本列島とは、どういうイメージですか?
栗本:王国の連合で、ひょっとしたら(大陸からやって来た蘇我氏に対し)抵抗があったかもしれない。そこにある価値観は、実は世界で一番多くある太陽とか月とか、その運行を軸にした価値観とネットワーク。だから原初的な太陽信仰でしょう。
――それが日本列島に非常に顕著に見られたというのは、ことさらに歴史学で強調すべきことでもない?
栗本:(本の中で)逆にそれを強調しすぎたところがあるね。大事なのは、もともとそういうものがあった、そこに意識的に「聖方位」(に象徴される新しい文化)が持ち込まれた。それがぶつかったんだよ。ぶつかったことが重要なんです。
――それは、縄文的なものと弥生的なものによく置き換えられますが……。
栗本:弥生というのはちょっと……。古墳時代的なものと縄文的なもの。
――ですよね。縄文と弥生を対比する歴史的な捉え方はよくありますが、先生の捉え方はちょっとニュアンスが違います。弥生はあんまりキーワードにならないですね。
栗本:ならないね。弥生は全然ならない。縄文時代にしても、古いものは全部縄文なんて間違い。
――縄文時代と弥生時代という歴史区分も固定化しすぎている可能性がありますよね。
栗本:柳田國男が悪いんですよ。水田農耕が弥生時代以降、それ以前が縄文時代であるという。それはそういう面もあるけど、(本質は)それじゃないと思うよ。
――先ほどもおっしゃっていたように、どちらかというと転機になっているのは古墳時代ぐらい……。
栗本:絶対、古墳時代。どちらかというとじゃなくて、完全に古墳時代。
――歴史区分も本当の意味では見直したほうがいい?
栗本:そうです。だから蘇我氏登場以前とそれ以降。つまりそれは天皇制なんだ。今は僕、神道の研究をしているでしょう。すると気がついたんだ。だから蘇我氏登場以降の神道と、登場以前の神道は違うの、全然。
――いわゆる縄文的な神道もあった、という言い方でいいんですか?
栗本:そうです。田舎のほうで、山の中でね。
――それは太陽ネットワーク的な神道という感じでいいんでしょうか。
栗本:まあ、そうだね。広く言ったらそう。そこに完全に違うものが入ってきて、具体的にはユーラシアからミトラ教的な価値観が入ってきて……。これはいくらでも見つけられるよ。牛に対する信仰とか、十字架とか、聖方位とか。
これは明らかに古墳時代以降、蘇我氏登場以降のもの。もっと象徴的にいうと、飯豊皇女(いいとよのひめみこ)という女性がいるんだけど、飯豊皇女登場以降。
――飯豊皇女に着目されたのも、先生の直観ですか。
栗本:それはむしろ理屈だね。まず女性でしょう。遊牧民は女性の権威が非常に強いんです。(男性と)同等なの。それと血の濃さを非常に重視する。そういったところで飯豊皇女。それから翡翠ね。皆、すごくシンボリックに結びついている。
――歴史の表舞台にはほとんど出てこない名前ですよね。卑弥呼とか、推古天皇はありますけど、飯豊皇女はほとんど知らない人が多いんじゃないかな。
栗本:そうかもしれない。でも結構有名な女性で、好きな人も多いよ。
――コアな歴史のファンは知っているんでしょうけれど。
栗本:要素的に日本の女性天皇という要素を持っている。彼女は双子の子を連れて登場してくるんだよ。双子信仰もユーラシアなの。
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★「■日本人特有の民族性って、そういう議論がわからないね」(栗本慎一郎インタビュー2-③)
◎栗本慎一郎 Shinichiro Kurimoto
1941年、東京生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。天理大学専任講師、奈良県立短期大学助教授、米ノースウエスタン大学客員教授、明治大学法学部教授を経て衆議院議員を二期務める。1999年、脳梗塞に倒れるも復帰し、東京農業大学教授を経て、現在有明教育芸術短期大学学長。神道国際学会会長。著書に『経済人類学』(東洋経済新報社、講談社学術文庫)、『幻想としての経済』(青土社)、『パンツをはいたサル』(光文社)、歴史に関する近著として『パンツを脱いだサル』(現代書館)、『シリウスの都 飛鳥』(たちばな出版)、『シルクロードの経済人類学』(東京農業大学出版会)、『ゆがめられた地球文明の歴史』『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)、『栗本慎一郎最終講義』(有明双書)など。
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