「日本人の起源なんて、いまの知性のレベルじゃ問題そのものがわからないですよ」(栗本慎一郎インタビュー1-③)
『ゆがめられた地球文明の歴史~「パンツをはいたサル」に起きた世界史の真実』(技術評論社)の刊行を記念し、2週にわたってお届けしてきた栗本慎一郎氏へのロングインタビュー。第3回にあたる今回は、いよいよ最終回。本書では十分に触れられなかった日本人の起源を中心にしたクリモト版・日本論について、様々な角度からお話を伺いました。インタビューの最後には、3月に亡くなられた評論家・吉本隆明氏へのメッセージも……。本書と併せて、ぜひご一読ください(長沼敬憲)。
■「蘇我氏系が日本人。彼らは日本人という意識を持っていたでしょう」
――先生にもう一つ伺いたいのは、やはり日本人の起源とか、そうしたテーマに興味のある人もこの本を読むだろうと思うんです。古代史の本とか、玉石混合ですがたくさん出ていますよね。
栗本:玉はないんじゃないの? 結局、そうした本には「日本人」という言葉が出てきますが、そもそも日本人とは何かがわかってない。そんなわかってないものの起源なんて余計わからないでしょう?
日本人が自らの国を日本(ニッポン)と呼ぶようになったのは、5〜6世紀のこと。そこで初めて「日の本(ひのもと)」という概念が生まれたんです。その日本に属していたのが日本人。
――帰属意識を持つようになって、初めて日本人?
栗本:そう、帰属意識が必要なの。それ以前は日本列島に住んでいる人というだけなの。
――ほとんどの人は、縄文人もひっくるめて日本人と思っていますよね。
栗本:縄文人は日本人じゃなく日本列島に住んでいた人で、その末裔が日本人に加わった。でも、4〜5世紀以降は従属民です。
――柳田國男がいう山の民みたいな?
栗本:単純に言えば、蘇我氏じゃないということです。蘇我氏系が日本人。彼らは日本人という意識をハッキリ持っていたでしょう。
――ちょっと基本的な確認になりますが、蘇我氏自身は滅びましたよね、大化改新で。
栗本:蘇我氏の宗家が滅んだだけですよ。大化改新の時に蘇我倉山田石川麻呂が反対側についていたように、親戚はたくさんいるわけですよ。
だいたい、天皇家にも蘇我の血がやたらと入っちゃったから、蘇我氏そのものは生きている、ただ本流の一家が死んだだけだと言えるのです。
――本のなかでも、蘇我氏は日本の古い家系ではなく、4〜5世紀ぐらいに北アジア、いわゆる扶余からやってきたと書かれていますね。
栗本:たぶん扶余、高句麗(コマ)から来たんです。
――高句麗から来た一家が政治的にも力を持って、歴史にも名前を残すようになった。
栗本:それで天皇家になったんです。
――事実上なったということなんですね。聖徳太子の時代と一般的に言われていますけど、日本のベースが作られたという位置付けでしょうか。
栗本:そうです。聖徳太子も蘇我氏ですからね、そうです。
――最近は「聖徳太子はじつはいなかったんじゃないか」とかいろいろ言われていますが……。
栗本:個人はね。それは可能性はあります。ただ、集団として聖徳太子一族は考えられます。これに加えて、藤原鎌足も血筋的には蘇我氏ではないかという重要な疑いがあります。
――蘇我氏と鎌足は、大化の改新では完全に対立関係ですが……。
栗本:その時はね。でも、鎌足は鹿島神宮の神官でしたから、蘇我氏系だと思います。
――もともと大陸のほうから来た、同じ流れを汲む一派だったと?
栗本:もっと言えば、みんな大陸から来ているんです。縄文人だけがずっといたんだけど、それだって、もとをただせば大陸から来ているんです。
だから、そういう渡来人という概念、日本人の起源という概念、それ自身がおかしい。先ほど玉石混合と言いましたが、民族とか、渡来することの意味とか、そういうことについてあまりにも古い考えに基づいているから、つまらないんですよ。
――定義付けを曖昧にしたまま、論を進めている?
栗本:そう。日本民族の起源なんて、そんな知性のレベルじゃ問題にできない、問題そのものがわからないですよ。
――そういう問題を立てること自体が早い?
栗本:だいたいね、関心がないですよ、僕なんか。日本人の起源なんてものは。
日本人ということが一応言えるようになったのは、蘇我氏の時代なんです。古墳時代の末期。
■「海を渡って多くの人がやって来た、その中心が北日本です」
――それを踏まえたうえで伺いたいんですが、先生はユーラシア全体から見た場合、東の最果てにある日本列島はアジール(最終避難場所)のような位置付けにあったとおっしゃっていますね?
栗本:そうでしょう。でもこの場合、日本と言っても北日本だと思いますね。南日本については、朝鮮半島とほとんどつながっていましたから。
これに対して、北のほうは渡り鳥が飛んでくるでしょう? 飛んでいくんだから向こうに何かあるだろうという感じで、太古の人は鳥をいまの人が想像できないくらい尊敬していた。
鳥が行っているんだから、海を渡っていけばたどり着くだろうという大きな志を持って、多くの人がやって来た。これが北日本です。
――いまで言うと、東北地方や北陸とか……。
栗本:北陸もあります。だけど北海道、東北あたりが非常に大きな地位を占めていたんです。
――むしろあっちのほうが先進地というか。
栗本:当然、先進地です。南日本のほうは、地理的に見て朝鮮半島の延長ですよ。
――朝鮮半島から九州の一帯は入り乱れて、興亡の歴史もありますからね。
栗本:4世紀ぐらいの段階では、南日本と朝鮮半島は渾然一体になっている。任那日本府とか言うけれど、植民地とかじゃなく、一緒になっていたんです。
――僕たちは日本人とか韓国人とか朝鮮人という位置付けで何か区分けしてしまいますけれど、一回ゼロにして見ないとならないわけですね。『日本書紀』には、スサノオノミコトが朝鮮半島から来たといった記述がありますが、それも普通のことだったんだと……。
栗本:そうです。それどころか、朝鮮半島に三韓(馬韓、弁韓、辰韓)ができ、やがて新羅や百済ができるんですが、そのさらに東北の地域には高句麗が……。一般的には「コウクリ」と言われていますが、正しくは「コマ」です。高句麗(コマ)という国があった。
――後世のいわゆる高麗(コウライ)という国とは別ですよね。いわゆる高句麗のことを当時は「コマ」と呼んでいた?
栗本:そう。当時、日本では「コマ」と言っていた、間違いなく。その高句麗(コマ)から海を渡ってきた場合、半島を通る必要はありません。北陸あたりが一番近くなります。つまり、日本海が重要な役割を果たしていた。
――高句麗やさらに北満州には先程の北方の遊牧民系の扶余とか、さらには鮮卑とか、いろんな国がありましたよね。そのなかの一部のグループが北日本に移住してきた?
栗本:そうです。日本にやって来たのは鮮卑(シァンピ)ではなく、高句麗(コマ)や扶余の勢力だったでしょう。
■「日本の飛鳥とパルティアがつながっていたのを、私はトンデモ歴史だとは思わない」
――先ほど出たアジールについてもう一度伺いますが、大学の講義などでも、「日本列島にはすべての遺伝子が集まっている」とおっしゃっていますね?実際、世界的にも珍しいY遺伝子のD系統がほぼ日本にのみ広く分布している、要はそれが縄文人であったことがわかってきています。こうした事実が何を意味するのか……。
栗本:すべての遺伝子があるということは、共存しているということです。つまり、最果ての地で「これ以上争ってもしょうがないんじゃないか」という心理が働いた。
もう東には海しかありませんから、そういうふうになったとしか考えられない。「もう殺しはやめよう」とか「残しておいてやろう」とか。
――日本は「和の国」と呼ばれ、聖徳太子も「和をもって尊しとなす」と言っていますが、この和の精神は非常に日本的なものですよね。こうした地理的な要因が、外国には見られない「話し合いで解決しよう」というメンタリティのベースになった可能性はあるんでしょうか?
栗本:絶対あったと思います。
――これに関連していると思いますが、もう一つお伺いしたいのは日本とパルティアとの関係です。先ほどのお話にもあったようにパルティアという国は一般的にはほとんど知られていませんが、じつは「アスカ」と呼ばれていたわけですよね?
栗本:そうです。
――ちょっと間違うと「トンデモ歴史」のように思われてしまうような話ですけど、これは事実としてハッキリ言えること?
栗本:間違いない。トンデモ歴史も確かにパルティアに注目しているけど、それも少しは正しい。パルティアが日本と関係あっても、全然おかしくないです。
――こうしたお話を伺うと、世界というのは古い時代から意外なほどつながっていたんだと感じます。一般の歴史では、大航海時代あたりになってようやく世界がつながったようなイメージがありますけど……。
栗本:違います。少なくともユーラシア大陸はずっと昔からつながっていました。だから日本の飛鳥がパルティア(アスカ)とつながっているというのは、私はトンデモ歴史だとは思わない。スペインとつながっているというと、トンデモ歴史ですが。
――でも、世界史を専攻しているような学者はそういう発想を持たないですね。
栗本:それはそうですよ、いいですよ、そんなことはどうだって。
そもそも、遊牧民の帝国は、「領域」じゃなくて「人」を基準にして国家というものを捉えていました。自分たちのことを「人」と呼んでいる傾向があって、匈奴(キォンヌ)は人を意味するし、スキタイ(サカ)も人という意味です。
――この「人」を基本に国を成り立たせるという発想自体、理解しづらいと思っている人も多いと思うんですよね。
栗本:ちょっといい辞書には国家の概念は2つあると書いてありますよ。領域とそれから人の集団。安物の辞書には書いていないだけで。
――そうですね。ただ、どうしても領域、領土が多いか少ないかで、国家がどれだけ発展しているかを……。
栗本:だからそういう発想がね、おかしいんです。中国人の犯している間違い。簡単に言えば、それは農民の文化なんですよ。
――なるほど。土地を耕し、その生産性をもって国力と見なすという?
栗本:基本的には突厥(チュルク)や柔然(ジャンジャン、ルーラン)やその他の大帝国は明らかに漢や隋、唐より大きかったけれど、彼らはそこに価値は見出さなかったし、中国の歴代王朝が作ったような都を遺していないですからね。
――根本的に価値観が違うわけですよね。我々は結局、農民の感覚で歴史を捉えて、彼らの本質を理解しないでここまで来ちゃったという感じなんでしょうか?
栗本:そうです。それは要するに司馬遷の歴史観。
――なるほど。そう考えると、なんだか呪いをかけられているような気が……(笑)。
栗本:馬鹿な話です。司馬遷にしても、一人で本を130巻も書いたわけですから、普通に考えたら嘘に決まっているじゃないですか。作文なら書けますよ、そんなのね。
――冷静に考えれば、まあ……。
◼︎「吉本さんは、厳しく言えばヘーゲル的世界から抜け出せていなかった」
――最後に一つ質問させてください。ちょっと本題からは離れてしまいますが、この3月に評論家の吉本隆明さんが亡くなられました。戦後を代表する思想家として活躍されてきた氏に対して、いまどんな思いをお持ちですか?
栗本:今回の本を吉本さんに読んでもらいたかったね。吉本さんはヘーゲル史観が基本だったから、僕としてはその点を彼にハッキリと批判してほしかった。
もう内心では違う思いをどこかで持っていたかもしれない。あえて言えば、そこをもう少し語ってほしかったというのはあります。
――ヘーゲル史観というのは、近代ヨーロッパを動かしてきた思想の到達点のような世界観ですよね。デカルトの二元論に始まり、カント、ヘーゲルときて、その延長にマルクスの共産主義が生まれたという……。
栗本:吉本さんはね、厳しく言えばヘーゲル的世界から抜け出せていなかった。
発展とか、進歩とか、そうしたものに価値を抱くという点で、私とはとらえ方がまったく違います。
――それは要するに左翼の思想というか……。
栗本:そうです。その意味では左翼です。支持する人がいるからいろいろな本を出していますが、その枠からは抜け出せなかった。
だから、ある時期からずっと停滞していた感じはするね。
――僕は吉本さんのことはあまり詳しくないので、この機会に少し調べてみたんです。で、1998年に『アフリカ的段階について』という本を出していることを知ったんですが、そのタイトルからしても、ヘーゲル的なヨーロッパの進歩史観から抜け出そうという意図があったのではと推察できますが……。
栗本:いや、「段階」とか言っているんだから、根本的におかしいよ。そんなもんじゃない。その発想がヘーゲル的なんです。
――なるほど。普通は「少しは近づいた」とか「共通点はある」といった評価の仕方をするものだと思うんですが、先生にはそうした曖昧なスタンスがないんですね。わかっているかいないか、とらえられているかいないかという……。
栗本:そうですよ。その意味では吉本さんのことは評価はできません、思想的にね。このへんは「流砂」という雑誌で書くことになっていますから、そちらをご覧になってください。
――ヨーロッパには、デカルトからヘーゲル、マルクスへと至る思想潮流とはべつに、こうしたヨーロッパ思想を根本から覆そうというニーチェやフッサール(現象学)のような思想もありますね。
こちらのほうが世界の本質が捉えられていた?
栗本:それはそうです。ニーチェのツァラトゥストラにしても、要はゾロアスターのことなんだから。
――そうですね。ニーチェだったらゾロアスターのさらに奥にあるミトラ教の世界についてもアプローチできたと思いますか?
栗本:材料が揃っていたらできたかもしれません。その可能性はあったでしょう。
――最後に読者の皆さんへのメッセージを改めてお願いします。
栗本:今回の本では世界史を一つでつなぐということを試みましたが、まだまだ不十分というか、書き足りないと感じるところもあります。
西洋史・東洋史・日本史をすべてまとめた総合教科書のようなもの……この先、そうした「たった一つの世界史」をもっとわかりやすく伝えていけたらと思っています。
すぐにでも書き始めたいくらいですよ。
――うーん、今回の本で執筆意欲がさらに高まったということですね。それは前向きに検討していきたいと思います(笑)。
(インタビュー終わり)
★編集後記
全3回に分けてお届けしてきた栗本先生のロングインタビュー、お読みいただきどうもありがとうございました。思えば2010年の段階で今回の出版は決まっていたのですが、2011年に入って東日本大震災があり、先生ご自身の学長就任があり、なかなか原稿執筆が進まない中で何とか出版にこぎつけたのが今年の4月。しかし、こうしてしっかりとお話を伺っていくと、それは「終わりの始まり」であることをつくづく感じます。
読者の皆さんのなかで本が読まれていくのはまだまだこれからですし、何よりも最初は「これが最後の本になってもいい」とか言っていた栗本先生にも心の変化が……(笑)。先のことはまだ何とも言えませんが、クリモト世界史の面白さ、奥の深さを少しでも多くの人に知ってもらうべく、今後も微力ながら様々な企画を考えていくつもりです。ロングインタビューの続編もいずれお伝えできると思いますので、「こんなことを聞いてほしい」というご意見がありましたら、お気軽にお寄せください(長沼)。
◎栗本慎一郎 Shinichiro Kurimoto
1941年、東京生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了。奈良県立短期大学、ノースウエスタン大学客員教授、明治大学法学部教授を経て衆議院議員を二期務める。1999年、脳梗塞に倒れるも復帰し、東京農業大学教授を経て、現在有明教育芸術短期大学学長。著書に『経済人類学』(東洋経済新報社)、『幻想としての経済』(青土社)、『パンツをはいたサル』(光文社)、歴史に関する近著として『パンツを脱いだサル』(現代書館)、『シリウスの都飛鳥』(たちばな出版)『シルクロードの経済人類学』(東京農業大学出版会)、『ゆがめられた地球文明の歴史』『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)など。
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