「いますでに自分が『ある』ことを、思考をかぶせず、深く直接に味わっていくことが大事ですね」(中村桂子×藤田一照 スペシャルトーク①)
生命科学というと、自分たちの日常とはどこか遠い、特別な世界の話のように感じられるかもしれません。
しかし、生き物の「いのち」を扱っているのが生命科学です。それが遠い場所にあるのだとしたら、どこかがおかしい。そんな思いで科学の世界のおもしろさ、生命のいとおしさを紡いできた、生命学者の中村桂子さん。
私たちが生きているバックグラウンドには、生物が歩んできた38億年の歴史(=生命誌)がある……そんなドラマの語り部である中村さんに、ぜひいちどお話ししてほしいとお願いしたのが、禅僧として多方面で活躍する藤田一照さんでした。
禅と生命科学。こちらも一見すると遠い場所にありそうですが、共通項になるのは「いのち」を見つめるまなざし。たがいの世界観が混ざり合って、この現実の中で「強く、優しく」生きていくための言葉が生まれたなら……。2017年2月、中村さんのドキュメンタリー映画『水と風と生きものと』の上映会のあと、初対面したお二人のトークが始まりました。
細胞も「縁」でつながっている
――一照さん、この対談を前に面白いご縁 があったみたいですね。
藤田 先日、僕の郷里である愛媛県今治の札所である栄福寺で対話会があったんです。そこで、『数学する身体』という面白い本を書かれた独立研究者の森田真生さんと対話したのですが、その会に中川学さんという僧侶でイラストレーターである方が参加されていまして、じつは中村先生の「生命誌マンダラ」を描かれた方でもあるんですよね? 今回、映画の中に中川さんのお名前があることに気づき、びっくりしました。
――中村先生も、一照さんをたまたまテレビで拝見したとか。
中村 ええ。昨日は泊りがけの勉強会でホテルにいたのですが、休憩時間に部屋でテレビをつけたらお話しされていて(注1)。明日お目にかかるのに偶然(テレビで)お会いするなんて面白いなと。科学者っぽくない言い方なんですが、やっぱり縁を感じましたね。
仏教で「縁」とおっしゃいますけど、生物学でも、発生生物学の岡田節人先生(生命誌研究館初代館長)は、「細胞の縁」とおっしゃっているのです。私たち人間はたくさんの細胞でできていますよね。最初は受精卵が一個あって、それが分か れていって、体の組織や器官ができるの ですが、それは「だんだんと決まっていく」んですね。それを岡田先生は「細胞の縁」 とよくおっしゃっていたんです。
藤田 それは、直線的な原因と結果ではなくて?
中村 ええ、決定論でできているものではなく、たまたまある細胞がある細胞と出会って、「じゃあ、一緒にやっていこうよ」 といった感じで体ができあがるんです。 その意味では、「縁」は科学でも考えることです。
藤田 岡田先生はだいぶ前に『細胞の社会』 という本を書かれていますよね? 僕はこのタイトルを見た時に「細胞に社会?」 と思いましたよ。だって細胞の発生生物 学という、細胞がどうやって形を成しているかを細かいレベルで研究されている方が、「社会」という人文系の言葉を使って本を出されているわけですから。
中村 毎日毎日細胞を見て研究している中で、そう思わざるをえなかったということでしょうね。ずいぶん昔の本ですから(刊行は1972年)、あの当時「細胞の社会」という言葉を使われたことは先見の明と言うほかありません。
藤田 まさに、中村先生が繰り返し強調されている「重ね描き」の世界ですね。科学という精密な絵(=密画)の上に、日常というもっとラフなもの(=略画)を 重ねていくことが、生命誌的なアプローチではないかという……。
科学と日常を重ね描きする
中村 こういう話をすると古いのがバレていやなんですが、DNAが発見された1950年代、私はすでに学生で……。
藤田 もうすでにみなさんご存じなので大丈夫です(笑)。
中村 ご存じなんですね(笑)。DNAの二重螺旋のことを知って、「ああ、これで生き物のことがわかる」と思いました。実際、わからなかったことがどんどんと解明されていきましたから、とても面白いと思いましたけれども、科学は自然を機械として見ているんです。「生き物も機械と同じで、分析していけばすべてがわかる」というのは本当かなと。疑問に思いますでしょう?
藤田 ええ、たしかに。
中村 DNAで調べるといろいろなことがわかるんですが、ちょうどその頃、子どもが生まれまして、なぜかわからないけれどいつもワーワー泣いているんです。「それをDNAで解明できるだろうか?」と(笑)、そういう科学と日常の矛盾に気がついて、そのギャップに悩んだのです。
解決の方法を考えました。一つは「日常で実感することを大事にして、もうDNA研究はやめる」。そうすれば楽になれるはずですが、研究は面白くてやめられません。そこで、DNA研究はやめず、子供が泣いていることも大事にする、その方法を探そうと思ったのです。私は仕事の中で女性だとか男性だとかは考えませんが、こう思ったのは女性だったからかなと思います。
藤田 実際、それでどう解決されていったのですか?
中村 生き物はできあがってここにあるのではなくて、「生まれてくる」ということに気づいたんです。あらゆる生き物がそうですよね。藤田さんだって、ご両親がいなければ生まれてきません。そのご両親も生まれてきた。そして、そのご両親も生まれてきた……。
いまの学問では、すべての人類をたどっていくと、その祖先はアフリカに戻るといわれています。いま生きている約73億人全員がアフリカの数万人の人から始まったというのは、まさにDNAのおかげでわかっています。そして、その最初の人類はというと、一番近い仲間がチンパンジーです。チンパンジーとの共通の祖先をたどってどんどん戻っていくと、私たちのような脊椎動物の祖先は魚類に戻ります。そして、魚からもどんどんと戻ると、あらゆる生き物の祖先がいるんです。それが「生命誌絵巻」の扇の要ですね。
この祖先がいつどこで何から生まれたのかということは、まだわかっていませんが、38億年前の海の中にはそういう生き物がいた、おそらく細胞があっただろうという様々な証拠があります。扇の一番上には様々な生物を描いています、そのあらゆる生き物が扇の要から来ているんです。キノコもひまわりもイモリも人間も、みんな等しく38億年かかってここにいるんです。
「外から目線」になっていませんか?
藤田 みんな同い年ということですね。同い年で兄弟で……。
中村 親をひとつにした同い年の仲間です。そういう視点で生き物を調べていこうと思って始めたのが生命誌です。この中でもうひとつ言いたいのは、「扇の内側に人間がいる」ということです。
藤田 (「生命誌絵巻」の内側の)一番左端にいますね。
中村 どこにいてもいいのですけど、たまたま。現代社会の政治や経済を動かしている方たちは、おそらく「人間は扇の外」、しかも上のほうにいると思っているでしょう。ですから、私は「地球に優しく」と言う方に「それは上から目線じゃないですか?」と言うんです。扇の中にいたら、優しくしてもらえないと生きていけないのですから。
藤田 映画の中でも、「人間は生き物です」ということを強調されていましたね。人間が生き物の外側にいるような立場でものを言ったり、行動したりするところに、先生ご自身、問題を感じていらっしゃるからですか?
中村 それをやめるともっと暮らしやすくなるというのが私の気持ちなんです。
藤田 この「生命誌絵巻」は、科学的な裏付けがあって描いていらっしゃるんですよね? ですから、これに文句を言う人は科学を認めない人だということになりますね。
中村 ええ、これ自体は科学をベースにしているので誰も否定しません。それなのに、日常に戻るとついつい気持ちとして「外から目線」になる。事実として「人間である自分が扇の中にいる」と考えてくださいませんかと言いたいのです。
藤田 映画の中で、建築家の伊東豊雄さんと「世界観を持つことがいかに大事か」という話をされていましたが、頭ではわかっていても世界観のところはなかなか変わらないという……。
中村 そうなんです。生意気を言えば、機械論的な世界観に対して生命論的な世界観を持つことが、21世紀では大事だと思うのです。
藤田 物理学で言えば、ニュートン物理学が19世紀の終わりまでにはすべてを説明できる、ほとんど解決できると思っていたけれど、じつは説明できない問題がいくつかあって、そこから量子力学や相対性理論のような現代物理学ができてきたわけですよね。こうした流れの先に、もう少し生命誌的な生物学の流れができてくることはあるでしょうか?
中村 急に今日から明日へと変わるものではないでしょうが、長い目で見れば変わっていくと思います。
藤田 生命科学をずっと見てこられた方たちは、同じように生命論的な方向にシフトしていくべきだという考えを持っておられるんですか?
中村 「べきだ」ではなく、自然と「そうなんじゃない」という感じですね。生物学には「べきだ」という言葉がないんです。「蜘蛛がいます、蜻蛉がいます、蝶がいます」というふうにいろいろなものがいますよね? 「蜘蛛がいてもいいじゃない、蟻も蝶もかわいいね」ということで考えていかないと。とにかくすでに「いる」わけです。しょうがないでしょ? 「べきか、べきでないか」と言ってもすでに「いる」のですから。仏教もそうですよね?
藤田 仏教の修行というと、(こうあるべきだという)「べき集」みたいなものをこなしていくものだと僕も最初は思っていたんです。みんなができそうにもない「べき集」をこなすのが偉いと思っていたんですが、それは仏教をわかっていない人が持ちがちな間違ったパラダイム、世界観でした。よく読んでみるとそうではなく、内側から生まれてくるもっとイキイキとして自発的で、その時ごとにフレッシュなものが大事なんです。
中村 「べき」ではなく、自分がやれることをやりましょうということですよね。
藤田 生命的に生きなさいというのは、「生き物として」生きなさいということで、ロボットのように生きるのとは違うということですね。極端な話で言えば、プログラム化されたものをちゃんとこなして間違うことなくずっとやっていきなさいというのとは、だいぶイメージが違っています。
坐禅でも、僕も最初は「これはやってはいけない」とか「こうしなければいけない」みたいなことを考え、できたかできないかで見ていたんですが、本来はそうではなく、生命論的なパラダイムでやらなければいけないのだと。いまはだから、僕の中でも機械論的修行観から生命論的修行観へゆっくりシフトしているような感じです。
思考をかぶせないで味わう
中村 瞑想というと私たちには近寄りがたいもののように感じてしまいますが、むしろ自分の内側から出てくるものを大事にしようということなのですね?
藤田 「自分が生きているということを直接味わいなさい」という言い方をしてもいいかもしれません。たとえば、精神統一とか無念無想というような自分が思い描いた理想に持っていくのではなく、いますでに自分が「ある」ことを、思考をかぶせないで深く直接に味わっていこうというものじゃないかと。
中村 生物学と同じです。先ほど言いましたように「蜘蛛も、蟻もいる……」という、その「いる」ということを大事にして、しかも自分の中から出てくることを大事にして考えていきましょうというところは本当に同じです!
藤田 なるべくいじらず、自由を与えて、自由から秩序が生まれてくるのを目撃しなさいということで、他律的に外から秩序を押し付けるのとは違うんです。男というのは頭でっかちなので、そういう押しつけをやってしまいがちですが……。
中村 それは、頭の思考が先に走ってしまうという感じでしょうか?
藤田 本当にそうです。
中村 体の内側から出てくるやり方を進めていくのは?
藤田 その点で生命誌的な生命の見方、生きているということのとらえ方に、禅は非常に寄り添っていると思います。
中村 生命誌と重なりますね。
藤田 非常に親密な関係かなと。
中村 なるほど。ありがとうございます。
藤田 だから、中村先生の本(『科学者が人間であること』)の中に僕の好きな人がいっぱい出てくるんだなと納得できます(笑)。宮澤賢治は出てくるし、南方熊楠は出てくるし、今日来る時に読んでいたら、マイケル・ポランニーも出てくるし……。
――あと大森荘蔵先生もそうですよね?
藤田 ああ、そうですね。
中村 大森先生は物理学者から哲学者になられた方です。本当に素敵な方で、私はいろいろなことを教えていただきました。正直、おっしゃることは難しかったですが、その難しい言葉の中で私が「これだ!」と思ったことがいくつかあり、そのひとつが「重ね描き」です。
大森先生は「科学というのは様々なことを調べるものであり、調べるべきはどんどん調べなさい」と。科学はすべてを数字・数値で表すという点で日常的とは言えませんが、大森先生はもっと厳しい言い方で「科学はすべてを死物化してしまう」とおっしゃったんです。つまり、生きているものなのにすべて細分化して、そこだけを見てしまっていると。
藤田 ひとつの生命をバラバラにして分析しようとしていると……。
中村 だから、たとえば原始時代の人々は自然も生きているというふうに受けとめていた。だけど、そんなすべてを死んだものにしてしまったのが「科学」だと。ある意味では、科学に対してとても厳しい言い方ですよね。
藤田 はい。僕も(東大の学生だった時)授業を取ったことがありますから、大森先生のことは存じています。
中村 たとえば、生物学でDNAなど調べていても、「それは生き物を調べているわけではないよ。死物にしてしまっているんだよ」と言われました。だけど、大森先生はここで救いを出してくださって、「そういう調べ方をやってはいけないとは言わない。だけど、そんな調べ方で生き物がわかるわけではない」と。
では、何をしなければいけないか? 私は科学の世界にいますが、それだけが私ではないわけです。先ほどお話ししたように、泣く赤ちゃんをあやし、家事も料理もしなければいけないという日常の中で生き物と接しています。そういう時に生き物に対して感じることと、科学をやってわかってきたことを重ねて考えられる人になればいいんだよとおっしゃったんです。
だから、科学はこうだとか、日常はこうだとかいう話ではないんです。ましてや、科学は死物にするから日常のほうが素晴らしいとか、日常は非科学的だからすべて科学で考えなさいとか、そんなことではない。一人の人間の中に科学で考えるということと日常で考えるということの両方があるのであり、それが感じられる人間になりなさいと言われたんです。これが救いでしたね。私は科学を捨てたくないですから。
藤田 たとえば、ブーンと蚊が飛んでいる時に、科学者だとその蚊についていろいろと研究して、知識を得ようとするわけですが、日常だと叩こうとして追いかけると、悲しそうにイヤだーと言いながら逃げているみたいに思ってしまいますよね(笑)。
中村 それは仏教の修行をしてらっしゃるからで、何も考えずにバン!と潰す人が多いんじゃないですか?(笑)
藤田 いや、僕もたいていはそんなことも思わずに潰しますが(笑)。でも、やはり捕まりそうになるとなんだか悲しそうなトーンで泣いているように感じてしまうところはあります。それも大事だということでしょうね。
(後編に続く)
注1 NHK教育『こころの時代~宗教・人生「心はいかにして生まれるのか―脳科学と仏教の共鳴」』2017年2月5日放送。
中村桂子 Keiko Nakamura
1936年東京生まれ。59年、東京大学理学部化学科卒。理学博士。三菱化成生命科学研究所、早稲田大学人間科学部教授などを経て、93年、大阪・高槻市に「JT生命誌研究館」を設立。大腸菌の遺伝子制御などの研究を通じ、生物に受け継がれている生命の歴史に着目、「生命誌」を提唱する。2002年、同館の館長に就任、現在に至る。著書は『生命科学から生命誌へ』『自己創出する生命』『科学者が人間であること』『小さき生き物たちの国で』など多数。2015年、ドキュメンタリー映画『水と風と生きものと〜中村桂子・生命誌を紡ぐ』(藤原道夫監督)が公開された。http://www.brh.co.jp
藤田一照 Issho Fujita
1954年、愛媛県生まれ。東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、得度。33歳で渡米。以来17年半にわたりアメリカで坐禅を指導する。スターバックス、フェイスブックなど、アメリカの大手企業でも坐禅を指導し、曹洞宗国際センター所長を務める(2010〜18年)。著書に『現代坐禅講義』(角川ソフィア文庫)、『禅僧が教える考えすぎない生き方』(大和書房)、『僕が飼っていた牛はどこへ行った? ~「十牛図」からたどる「居心地よい生き方」をめぐるダイアローグ』(ハンカチーフ・ブックス)など。共著に『感じて、ゆるす仏教』(KADOKAWA)、『禅の教室』(中公新書)、訳書に『禅マインドビギナーズ・マインド2』(鈴木俊隆著、サンガ新書)、『禅への鍵』(ティク・ナット・ハン著、春秋社)など。http://fujitaissho.info
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