「素晴らしい未来をつくるため、これから秒読みで《虹の戦士》をいっぱいつくっていかないと」(浅葉和子インタビュー①)
葉山から三浦半島を横断した先にある金沢文庫、800年の歴史を持つ称名寺のほど近くに、浅葉和子さんが50年かけて育ててきた「アサバアートスクエア」があります。
今回、浅葉さんにインタビューをお願いしたのは、『フードジャーニー』という、日本人のたましいのルーツをたどった本を書き上げたのがきっかけ。「これからは日本と世界をつなぐ物語を書こう」……そんなビジョンが広がるなか、《先住民》の存在がふわーっと浮かび上がり、その失われた世界をコトバの力でよみがえらせたい思いが湧いてきました。
それは、僕たちが意識の奥底で共有している、風土との深いつながり、大地の記憶……。いまから30年近く前、ネイティブ・アメリカンの聖地に飛び込み、アートを通して子供たちと交流してきた浅葉さんは、彼らの文化を日本に伝えたパイオニア。忘れていたものを思い出し、新しい一歩を踏み出すにはどうしたらいいか? 浅葉さんの稀有なライフストーリーを聞くうちに、新しい旅が始まっていました。
すべてが解決した瞬間
――今日はありがとうございます。浅葉さんのライフストーリー、特にネイティブ・アメリカンとの出会いを伺いたくてやって来ました。
浅葉 私の場合、まずエジプトがあって、エジプトとのご縁がなかったらネイティブ(・アメリカン)には出会わなかったと思うのね。
――まず訪れたのがエジプトで……。
浅葉 はい。私の人生でいちばん悩みの多かった40代後半、友人に誘われてふっとエジプトに行ったんです。そこで、ラムセス6世の王墓に描かれたヌート神の絵を見たのですが、この女神には「一日一回太陽を食べて、明日を生み出す」という神話があって。その話を聞いた瞬間、「自分はなんて小さなことに悩んでいたんだろう」って、すべてのことが目から鱗が落ちるように解決したんです。
――もう直感的に?
浅葉 ええ。それから年1〜2回くらい、(絵画教室の)子供たちを連れてエジプト通いが始まりました。現地の子供たちと一緒に絵を描いたり、さまざまな交流をして……18回ほど行きましたね。家庭内暴力やいじめの問題が出てきた頃でしたから、子供たちにはショック療法みたいな形で目を覚ます効果があったと思います。
――時期的には1980年代後半ですよね。
浅葉 訪問したなかでも、一番たくさん連れていったのが89年でした。エジプトと日本の絵画交流使節団ということで、35名ほどの子供たちをエジプトに連れて行きました。それで、その年の終わりくらいにエジプト大使館でパーティーがあって、いつもだったら国道を使って家に帰るんですが、その日に限って違う道を通ったわけ。そうしたら、その日に開いたという小さなギャラリーがあって、そこで一枚の絵を……やっぱり、また絵なんですよ。その絵を見たとき、矢を射られたような感じがしてね。
――どんな絵だったんですか?
浅葉 夕もやか朝もやかわからないですが、砂漠が広がっていて、毛布をかぶった女性の後ろ姿が描かれていました。見ているだけで、ものすごく幸せな、安らかな気持ちをもらう感じがして、「これはどなたが描いた絵ですか?」って聞いたら、ナバホ・インディアンだって言うわけです。その時、インディアンという言葉が初めて入ってきました。それまでは西部劇のなかの悪者的なイメージしかありませんでしたから。
――そこで初めてつながったわけですね。
浅葉 「この世界に住む子供たちって、どんな暮らしをしているんだろう?」って、まず思ったんです。ちょうど日本でも子供のいろいろな問題が起きた時でしたから、「ここの文化を知りたい! このなかに何か答えがあるはずだ」と思って、彼らの世界に飛び込んでいったんです。
行くべくして行ったアメリカ
――興味を持った背後には、当時の子供たちの問題があったと。
浅葉 この地域(川崎市・金沢文庫周辺)って、80年代に産業団地の埋め立てがすごかったんです。660くらいの会社が集まって、小学校ができたり、街ができたり……いまでもよく覚えていますが、当時、その街の公団住宅に住む小学校5年生の男の子が投身自殺したんです。その子がうちのクラスに来ている子と同じクラスだったこともあって、すごくショックを受けました。当時は珍しかったですし、同じクラスの子だということで。
――余計に現実味が……。
浅葉 そう。現実に危ないんだっていうことを強く感じて、(子供にアートを教える)仕事をしている以上、「何かしなければいけない」と思っていた矢先、あの絵に出会って。だから、余計に強く安堵感をおぼえたのかもしれません。
――実際、アメリカに渡られたわけですよね? どうアプローチしたんですか?
浅葉 その翌年、ハワイに留学していた娘が「アメリカで英語の勉強を本格的にしたい」って言ってきたんです。それで、昔知り合った老夫婦がロサンゼルスにいたので、手紙を出したら「母親も一緒だったら預かりますよ」って返事が来て。上の二人はもう高校を出る年だったので、何とかなるだろうと思って、決心して行ったんです。
――二人で一緒に?
浅葉 ええ。行くからには、何かしっかり学ぶ柱を立てたいと思って、ネイティブ・アメリカンの文化とアートセラピーを学ぼうと計画を立てました。向こうに住んで、2年のつもりで行ったのが、結局、4年になりましたね。
――迷わなかった?
浅葉 ええ。もう迷わずに。行くべくして行ったという感じで。それ以来、あまり考えず、ここまで来てしまった感じです(笑)。
ネイティブの子供たちに飛び込み授業
――お世話になった老夫婦以外に、現地で知り合いはいたんですか?
浅葉 いない、いない(笑)。最初の1年はロサンゼルスにいて、ネイティブ・アメリカンの多い学校を訪ねて、飛び込みの授業をやったり。でも、都市化したネイティブの子供だからちょっと違うなと思い、1年後にサンタフェに移りました。
――サンタフェに移ったのは……。
浅葉 ネイティブが多い場所だって聞いたので、まず1年目の夏休みに車で訪ね、そこで出会った人がクラウド・イーグルというネイティブの彫刻家を紹介してくれたんです。彼の誘いで、北プエブロ(注1)のアート委員会の月例会に参加し、ここでも「日本の子供たちが危ない。あなたたちの文化のなかにきっと解決策があると思う」と話したら、「我々も外の文化を学ぶことで自分たちの文化を知ることが必要だ。だから一緒にやりましょう」という話になったんです。
――アート委員会って面白いですね。具体的にどんなことをされたんですか?
浅葉 アートを通しての教育委員会のようなものでね。ネイティブにとって、アートとの関わりはとても大事なものなんですよ。具体的には、車に画材を積んで、デイスクールと呼ばれているネイティブの学校に行って、ボランティアで教えるわけ。教室を解放してくれたので、インターナショナルクラスをつくってね。
――会話は大丈夫だったんですか?
浅葉 いい加減英語しかしゃべれなかったけれど、アートって言葉を超えるでしょ? 下手なほうが面白みがあって、子供たちにとっては、よかったのかもしれません(笑)。
――教室の子供たちもそうですが、いろいろな出会いがあったのでは?
浅葉 なじみ深いのは、タオス・プエブロで「オーオナ・チルドレン・アートセンター」を運営していたマリー・レイナとの出会いですね。私が交流したのはプエブロ族といって、全部で19の部族に分かれ、サンタフェを境にして北に8、南に11の部族が住んでいました。その8つある北プエブロのなかで一番大きく、歴史が古いタオス・プエブロにこの施設があって、クラウド・イーグルの紹介で訪ねに行ったんです。
――どんな施設なんですか?
浅葉 ここは、もともとイタリア系の教育学者である男性が、「ネイティブの伝統がこのままではなくなってしまう」と資金を集めて建てられたのですが、完成直前に亡くなって、一時は荒れ果てた状態で忘れられていたんです。それを受け継ぎ、再スタートさせたのがタオス・プエブロの血を引くマリー・レイナという女性でした。ただ、私が訪ねた時は、一人で管理していることもあって建物はほこりまみれでね、冬期は資金がなくて暖房が使えず、閉められていました。そうしたところを一緒に掃除して、施設に寝泊りしながらワークショップをスタートしたんです。彼女とはいまでも親友ですね。
大事なのはもっと遠い未来のこと
――どんなワークショップを?
浅葉 学校の帰りに寄ってくれる土地の子供たちを相手に、お互いの伝統を知ろうということで、古いシーツをいろいろな色で染めて仮面づくりや人形づくりをしたり……あるものを使って思いつくまま、いろいろとやりました。向こうの子供も素直に表現するでしょう? だんだん言葉を超えた交流が始まって、帰りは彼らの家庭に行ったり、泊まらせてもらったり。いま振り返ると、子どもとその家族を通していろいろなことを学ばせてもらったと思います。
――そうやってネイティブの人たちとつながっていったんですね。そこには意味とか必然があって……。
浅葉 やっぱり、ミッションだと思いました。私は子供に伝える仕事をしているでしょう? だから、私が学ぶことが子供に伝わればいい、子供が学んだことが親に伝わればいいって。いまは完全にそう思って活動していますが、あの頃は、そういう思いのはじまった頃だと思いますね。
まあ、向こうにいるうちは、そうしたことはあんまり感じていないのね。それが、日本に帰って現場に入った時、「これはまずい、何かしなくちゃ」とすごく焦って……そう思っているなかで始まったのが金沢文庫芸術祭(注2)でした。芸術祭を続けていくことで、(教室で教えている)生徒だけでなく、もっとたくさんの人に伝えていけるようになりました。
――芸術祭を立ち上げたモチベーションにもなったんですね。
浅葉 もちろんそうです。あの時代、実際にやって事実がだんだんできてこないと、新興宗教のように思われてしまうから(笑)、あまり大きくは打ち出さなかったですが、気持ちはそうでした。
――本当は宗教も芸術も同じものなんですけどね。
浅葉 そうそう。だんだんなくなってきたけれど、まだありますよね、宗教や政治の話をあまりしてはいけないようなところが。私にとっては、絵を教えることよりももっと違う、もっと遠い未来のことが大事だったんです。
――大学で学ばれたアートセラピーは、これとどうつながっていったんですか?
浅葉 同じですね。アートセラピーもやっぱり自分の内面を見るわけ。ネイティブ・アメリカンの文化もやっぱり内面でしょう? アプローチする方法は、アメリカだからまったく自由。粘土をやってもいいし、切り刻んでつくってもいいし……そのあたりは過去に訪ねたヨーロッパとも、日本とも違っていました。
――似たことを学んでいたわけですね。
浅葉 そうですね。アートセラピーの先生にプエブロで教えていることを見せたら、すぐにAをくれましたから(笑)。私よりずっと若い先生でしたが、すぐ友達になってね。
――ネイティブ・アメリカンの歴史とか、そのあたりの知識は?
浅葉 私の場合、全然勉強なしで行ったでしょう? なにしろ突然でしたから(笑)。だから、いろいろなことは後から知っていったのですが、向こうにいると(ネイティブの伝統が)日常の中に当たり前に生きているわけです。たとえば、「フィースト」というプエブロ族の収穫祈願祭があるんですが、その時は各家庭で伝統料理を作って、皆を招いて、ご馳走してくれるんです。学校があっても子供は休んでそっちに行っちゃうし、会社もそう。そのくらい伝統を大事にするのが彼らの生き方なんですね。
――現地で暮らさないとわからない感覚ですね。
浅葉 ある時、酔っ払いの男性がよろよろになりながら、「おまえ、そんなことをしたらマザーアース(母なる大地)に怒られるぜ」って言うわけ。会話のなかにこうした言葉がさらっと入っていることには、びっくりしました。私たちにとって特別でも、彼らにとって自然そのもの、祈りそのものが日常だから、宗教とか、アートという言葉がとくにないわけね。
同じ地球で同じ生き方をしている
――そうした体験って、いまも浅葉さんの拠りどころになっているものも多そうですね。
浅葉 91年だったと思いますが、たまたまチケットが一枚あるからとロサンゼルスの環境会議に参加したら、すごい規模で、日本からもブースが出店されていてね。そのなかで「マジカルレインボー」の原作の本を見つけたんです。
――芸術祭などで上演している……。
浅葉 ええ。「The Magical Earth Secrets」といって、カナダのクリー族に伝わる、虹の翼という名前をもったネイティブの子どもの物語です(注3)。それを翻訳して、劇にして……そこに描かれた世界は、私の教室のテーマにもなりました。原作者のデラ・バーフォードさんとは、住んでいる場所は違っても、同じ地球のなかで同じ生き方をしている感じがしてね。いま、カナダと日本でやりとりしながら、おたがいの50年の歩みを一冊の本にしているところです。うれしいことに、ことし(2018年)の芸術祭にも来てくれたんですよ。
――そうやってネイティブの文化が少しずつ広まっていったんですね。
浅葉 ええ、少しずつ。たとえば、先住民という言葉にしても、芸術祭をはじめた当初はまだ使っていませんでした。「先住民族広場」(注4)ができるまで、10年かかったんですね。ようやくその頃になって、普通の人がネイディブの文化を知るきっかけが作れるようになったのかなと思います。
――浅葉さんみたいに現地で体感してきた人ってあまりいないと思うので、少しでもフィードバックしていただけるとありがたいです。
浅葉 やっぱり、体感しないとわからないですよね。とくにネイティブの世界はわからないと思う。過去の時代、白人からずっと略奪されてきたわけでしょう? だから、どうしても守りが強いんです。そこにぼんと入っていくわけだから、人によっては心をすごくブロックしていてね。
————少しずつ打ち解けて?
浅葉 ええ、いっしょにいれば、変な日本人がいるという感じでね(笑)。
《虹の戦士》があらわれる時
――このあたりで《虹の戦士》(注5)の話を伺いたいのですが、いまの時代に伝えるメッセージとして、とても強い力を持っていますよね。
浅葉 そう。いまですよ。まさにいま伝えていかなければならないメッセージです。
――物語の冒頭、ネイティブの子供がおばあさんに問いかけるじゃないですか。自分たちの祖先は、なぜ白人たちに大地を奪いとられたことを許しているのかって。北川耕平さんがわかりやすくまとめた『定本 虹の戦士』には、
インディアンが昔のスピリットを取り戻したあかつきには、インディアンは白人たちに、互いに愛しあうとはほんとうにどういうことか、あらゆる人間を愛するとはどういうことかを、今度は教えることになるだろう。
とありますが、この発想ってすごいですよね? それまで虐げられてた人たちが、虐げてきた側を助けることになるという……。
浅葉 誇りを感じますよね。私がネイティブの人たちと接していちばん羨ましいと思ったのは、この誇りの高さなんです。私がいたタオス・プエブロって、いちばん古いところは電気も水道も使わず、山から流れてくる水で生活して、自分たちもそこから生まれ、死後もそこに戻ると考えられているのね。
そこにネイティブの部族がいろいろなところからやってきて、パウワウというお祭りが開かれるんですが、90代くらいのおばあちゃんも、よちよち歩きの子供も、タオスの曲がはじまるとパッと起き上がって踊りだすわけ。本当に誇り高くてね、そういう光景を見ていると、私たち日本人って何があるんだろうって思うんです。
――気づいてほしい、思い出してほしいと思うことが、たくさんあるのでは?
浅葉 日本では、子供も大人も、すごく勉強はして知識だけは増えているけれど、土に触る体験があまりないでしょう? 地球のなかで大地によって生かされているという、当たり前のことなんですが、その当たり前にもう少し深く気がつかないと。気づけばすべてが変わってくるんですよ。
――気づけば変わってくる。
浅葉 友だちに山ちゃん(山田圓尚さん)というお坊さんがいるんですが、彼は「7ジェネレーションズ・ウォーク」という、歩くことが祈りであるという活動をされているんです。歩いて、地球とふれあうことが自分自身の心を耕していくという実践ですが、それは、(インディアンの精神的指導者であった)デニス・バンクス(注7)もおなじなんですね。デニスもセイクリット・ランを通して権利の回復運動を成功させた人ですから。
――7ジェネレーションズというのは、「7世代先の子供たちのために生きよ」というネイティブの教えから名づけられたと聞いています。
浅葉 そうです。文明のなかで、ただ便利さだけに頼ってしまうのではなく、もっとゆっくりと空気を味わいながら大地に触れる……そういう機会って、絶対必要だと思うんですね。
――まずそこからなんでしょうね。
浅葉 私はここまで一気に駆け抜けてきたので、ゆっくり味わっているかわかりませんが、どちらかというと野性派だし……。
――間違いなく野生派だと思います(笑)。
浅葉 住んでいるところも山や海に近いので、自然のなかで救われてきたという思いがあります。でも、そういうことを知らないで育っている子供もたくさんいるわけでしょう? お母さんたち見ていると、幼稚園ぐらいから受験のこと考えたり、他の子と比較したり、競争的な社会で生き延びることが大事だと考えている人もまだ多いですよね。
――浅葉さんは、子供の頃、そういう影響はなかったんですか?
浅葉 私の場合、田舎で育って、遊ぶのも田んぼでしたし、父がいなかったこともあって、勉強しなさいと言われたこともない(笑)。自由に生きることが当たり前で、解き放たれて育った気がします。
――都会に憧れることは?
浅葉 あまりなかったですよね。一人で生きていくこと、経済的に自立することは考えていましたし、だから美大に進学しようと思ったんです。ただ、生まれが戦中でしょう? ものが全然なかった時代も知っているし、逆にバブルの全盛も知っている。戦後の日本の伝統が消される体験もしていますから、その頃のアメリカナイズされた時代も入っていて、キンキンギラギラだったこともありますしね(笑)。アメリカに行って、ネイティブの生活によって目覚めたんです。
――自然回帰されたんですね、理屈抜きに。
浅葉 ええ。そういう意味では、行ってよかったと本当に思っています。
「できない」という言葉を使わない
――いまの日本人にも、ネイティブである縄文人のDNAがかなり残っていると言われていますよね? 失われたものを取り戻す力を、潜在的にすごく持っていると思うんです。
浅葉 《虹の戦士》もそこなんですよ。訪ねてきた人に読んでもらって、「どう感じましたか?」って尋ねると、わかる人はわかってくれる。そうやって心の門を通った時、その人はすばらしい世界をつくっていけると思うんです。だから、これから秒読みで《虹の戦士》をいっぱいつくっていかないと。日本って早いんですよ。「これは!」と思うとワーッと変化するでしょう? すぐに忘れるところもあるけれど(笑)、すぐに変われることのほうを利用して、いい方向にむかっていけば絶対に広がっていきますから。
日本人のなかにも、《虹の戦士》のような古くから伝わる希望があるじゃないですか。それをもう一回よみがえらそうって、気づいた人たちが旗を振っていくんです。まだまだ少数派だから、そこは言い続けるしかないと思います。
――《虹の戦士》は、戦士といっても戦争のための兵隊ではないですよね?
浅葉 そう。だから、まずそれを説明しないとダメですよね。平和のために自分の意識を高めていける人、未来の希望に向かって進んでいける人……それが《虹の戦士》だと思いますね。
――日常に不満があっても、そこから抜け出すのには勇気がいると思うんです。勇気を出して一歩抜け出す、だから戦士なのかなって。
浅葉 まさにそうですよね。
――いろいろな方を見てきたと思いますが、何が変化の引き金になると思いますか?
浅葉 私が大事にしているのは、できないっていう言葉を自分のなかから捨てるということ。できないって決めた途端に、神様がちゃんとできなくてくれちゃうから(笑)。できないけどがんばる、できるまでやる。そういう姿勢を持つことは誰にだってできるでしょう?
――できないという言葉は言わないほうがいい?
浅葉 言わない。子供たちには言わせない(笑)。だって、上手にやりなさいとも言ってないし、どれだけ時間をかけても、一生かかってもいいんだから、できると思えば必ずできるんですよ。
あとはイメージ。イメージすることは誰でもできるでしょう? 空想でもいいから、こんなことできたらいいな、こんなふうに社会がなったらいいなって、いろんな形でイメージしていくの。そうすると、必ずイメージするものに近づいていくから。いい方向にイメージする人が10人いたら、よりいい方向にイメージが膨らむし、100人いたらもっとすごいでしょう?
文明とは病気にかかること
――先住民の人たちは、過去の歴史のなかですごくつらい体験をしてきたはずですが、イメージだけは失わなかった気がします。
浅葉 誇りとイメージですね。
――とても大事なものを受け継がれてきたんだなと改めて思うんです。
浅葉 ホピ族の人たちは、「自分は棒が一本あれば幸せに生きていける」って、必要最低限のものでいいって気持ちがあるわけね。とうもろこしを植えて、木があれば耕せる、それで自分は生きていける。すごく謙虚で、シンプルですよね。
――複雑になってしまった世の中で、そんなにシンプルな生き方はできないっていう人もいると思いますが……できるんですよね?
浅葉 できると思いますよ。私たちも土を耕す運動を始めていますが、持続可能な円環のなかに戻っていくんです。変化を求めるよりも、それまでの直線的な進歩、進歩という発想を変えていく。そこが一番間違っていたわけだから。ネイティブの暮らしというのは、おじいちゃん、おばあちゃんのやってきた暮らしをそのままつないでいこうというものだったでしょう? それこそ、何万年にもわたって。そこに文明が入ってきて、その結果がどんなものだったか……みんなわかってきていると思う。自分の身に痛みが来ればやっぱり気づくと思うのね、このままじゃまずいって。
――《虹の戦士》の予言そのものですよね?
浅葉 私はね、ひとつの例として、日本が良くなれば地球も良くなるし、悪くなれば地球も悪くなるって思っているんです。ホピの人たちは「平和の民」と呼ばれ、平和をつくるために選ばれたと言われていますが、日本人にはそれを実証する道が用意されているんだと思います。
――人口が1億2000万もいて、先進国と呼ばれながら、先住民のスピリットもそれなりに残っているって、稀有なことですよね。
浅葉 そう。島国でひとつにまとまっていて、頭もいいしね。あまり汚されてないし。
――僕の尊敬しているある先生が、「文明とは病気にかかることだ」と話されているんです(注7)。体の病気ではなく、拡大発展病という、心の病気の一種でしょうかね。日本人も近代化によってこの病気が蔓延し、自然から離反していきましたが、もともとその割合が少なかったのかなと。
浅葉 私たちは、地球という輪のなかにつながって生きている……その意識が一番ポイントじゃないかと思いますね。人と人のつながりも、人と他の生き物、人と自然のつながりも、別々なものは何もない、まずそこに気がつかないとね。
本当にあてになるもの
――それまでの意識を変えていくことって、日常のなかでできるでしょうか?
浅葉 できると思いますよ。今回、せっかくインタビューを受けるので、海で身を清めておこうと思って、何日か前、朝早く日の出を見に行ったんです。その時の空の雲の美しさといったら……自分はこの大きな広い空のなかに生かされているんだって、祈りの気持ちが湧いてきてね。
――空はどこでも見つけられますよね?
浅葉 ええ、どこでも。海があればすぐ、何もないところが見えるわけでしょう。都会でも、ビルの上に行けば空を見上げられますよね? 嵐の後の空とか……でも、一番いいのは日の出。ただ眺めるだけで気持ちが変わるし、病気だって治るかもしれない。
――これから何をしていきたいですか? いろいろなビジョンがあると思いますが。
浅葉 私の場合、いまがやっとスタートですよ。これまでは考えるひまもなく行動してきましたが、いろいろな人にすすめられ、やっと50年で立ち止まった時、初めて次にやることがわかってきました。それが《虹の戦士》の活動なんです。このスペースに、疲れた人でも誰でも来て、本読みたかったら読めばいいし、話したかったら話せばいい……そういう場をつくりたいと思っています。
――カフェスペースの仕切りがなくなって、ずいぶん開放的で、広くなりましたよね? 《虹の戦士》のスペースもすてきな空間で。
浅葉 教室のほうは息子に早く譲って、私はここに常駐していつも本読んで、誰か来たら話をするような、そういう伝える人になりたい。
――ここに来たらいらっしゃるという状況に?
浅葉 できるだけ、すみのほうで小さくなってね(笑)。規模の大きさじゃなくて、縁あった人があの門を見て感じて、知らない人でもフッとやって来る、それが大事だと思います。
――(アサバアートスクエアに)新たに設けられた《虹の戦士》の門ですね。
浅葉 何も情報を知らなくても、あれを見て「何だろう?」と気がつく人っていると思うんですね、スピリットを送っているわけだから。それで、かつて私が(ナバホ・インディアンの)絵を見て矢を射られたように何かを感じてくれたら、必ず門をくぐって、話をして。その人の背中をポンと叩くことになるんだと思う。
――スピリットとは何だと思いますか?
浅葉 それは当たり前のもの、ネイティブの人たちにとっては、こうして1秒1秒話しているいまが祈りだし、祈りという言葉もないくらいに日常化しているわけでしょう? 自分あっての神ではなく、自然のなかの一部が自分であって、その自然が父であり母であり……ずっと体に入っているから質問すらない。それが昔のネイティブにとってのスピリットですね。
――スピリットって、目には見えないし、言葉にもできない。でも……。
浅葉 一番大事で、一番あてになるものだと思う。逆に人工知能とかロボットとか、本当はまったくいらないものかもしれない。だって、それよりもずっとすごいものが、自分のなかにあるのだから。
(注釈)
注1 プエブロはスペイン語で「集落」という意味。サンタフェの北西にあるチャコー・キャニオンには1000年近く前の広大な住居跡が遺跡として残り、ここに住んでいたネイティブ・アメリカンの子孫がプエブロ族と呼ばれている。
注2 「こどもの未来は地球の未来」をテーマにした、ともに学び、楽しめる金沢文庫発のアートフェスティバル。1999年にスタートし、2018年に20周年を迎えた。
注3 『The Magical Earth Secrets』(Della Burford Western Canada Wilderness 1990年)
注4 金沢文庫芸術祭のブースの一つ。「今と未来を平和で豊かな心で生きるため、先人たちの知恵を学び、感ずる広場」として2008年にオープン。
注5 『定本 虹の戦士』(北山耕平・翻案 太田出版 2017年)
注6 1937〜2017年。68年、AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)を設立。“レッドパワー・リーダー”(米国先住民公民権運動家)として、平和と環境保護をテーマに「セイクリッド・ラン」「ロンゲスト・ウォーク」を主催してきた。山田圓尚氏は、その遺志を受け継ぎ「7ジェネレーション・ウオーク」を提唱している。
注7 『栗本慎一郎の全世界史』(栗本慎一郎・技術評論社 2013年)
(プロフィール)
浅葉和子 Kazuko Asaba
武蔵野美術大学グラフィックデザイン科卒業。1968年より横浜市金沢区で子供のデザイン教室をスタート。児童絵画を通しての異文化交流(エジプト、トルコ、アメリカ、ラオス、タイ、オーストラリア、オランダ、中国、アフリカ、メキシコなど)を行う。1991年、渡米。ロサンゼルス・カリフォルニア州立大学、ニューメキシコ大学でアートセラピーを学びながら、アメリカ先住民、北プエブロ族と交流。帰国後、彼らに学んだ自然との共存の精神を広く伝えるために様々な活動を展開。1999年、金沢文庫芸術祭を立ち上げ、アートを通じての人輿し(町輿し)運動を開始した。著書に『魔法のアトリエ子どものデザイン教室』(創和出版)。
★アサバアートスクエア http://asabaart.com
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