「日常から出てきた物語が芸能と出会い、あの影絵が生まれたんだと思います」(わたなべなおか&小谷野哲郎インタビュー)

2019年4月、桜の咲く吉野の里へ取材に訪れた時、初めて目にしたのが、吉野山の勝手神社で行われた不思議な「影絵」でした。仮面を被り、時に踊りながら、モノトーンの影絵を通して遠くバリの昔話を紡いでいく。沖縄から駆けつけたアマムyukiさんの三線の音色とともに、神話の時間が流れはじめ、物語とともに演じ手の優しいメッセージが伝わってきました。

影絵を演じたのは、物語作家のわたなべなおかさんと、バリ舞踊家の小谷野哲郎さん。

壬申の乱、源平の争い、南北朝……。古来、再起を果たそうとする人たちが訪れた吉野の土地で、二人が求めてきたのは、魂のよみがえり。人と世の中の価値観が大きく変化するこれからの時代、何を大事にし、どんな「物語」を紡いでいくか? そのメッセージは? 影絵公演の翌日、賑やかな吉野山から離れ、ゆっくりとお話を伺いました。

言葉との出会いが「物語」を生んだ

――なおかさん、生まれは吉野なんですか?

なおか 生まれ育ちは大阪なのですが、叔母がここに嫁ぎ、住んでいるんです。それで大学時代からよく来るようになりました。

――影絵の奉納を始めたのはどんな経緯から?

なおか ちょうど2011年に父が病気になって実家に戻ったんですが、亡くなる前にある祝詞を教えてもらって、すごく感動したんです。「身中祓詞」(みなかのはらいのことば)というのですが、この祝詞に「神様ってこんなに寛容で、こんなにも聴してくれる大きく優しい存在なんだ」と思ったんですね。当時、震災直後ということでいろんな場所にチャリティーイベントで呼んでいただいて、祝詞を挙げさせていただきました。その祝詞を聞いてくださった(吉野山の)吉水神社の宮司さんとご縁ができ、巫女としてお務めしたこともあります。

――まず巫女さんをされるようになったんですね。その祝詞というのは?

なおか 言葉の持っている力というか……、言霊というものを体感したきっかけだったかもしれません。理由はわからないけれど、わたしは小さい頃から言霊の力というものがあると感じ、ずっと日常生活の一部として大切にしていました。それは、「こんにちは」や「ありがとう」のような、ごく普通の言葉です。だから、「身中祓詞」に出会った時も自分の中の何かが反応して、大切にしていこうと思えたし、わたしにとってそれが言葉との出会いだったと思うんです。

――それが「語り」につながった?

なおか ええ。この祝詞に出会った時期と、自分が「伝えたいこと」に出会った時期が同じだったんです。そのことを周囲に話していたら友人が話す場をつくってくれたり、物語を書くことをすすめてくれる人たちが現れたり、そうやっていまの活動が自然と始まったように思います。

――2011年が最初?

なおか 最初に大きく動いたのが2011年だったんですが、(オーストラリアにある)アボリジニの森(注1)に行った2008年あたりから少しずつ始まっていました。時を同じくして、たけちゃんとの出会いもありましたし……。

――(インタビューしている場所の隣にある保久良古墳を指して)ここに眠っているといわれている建皇子(注2)のことですね。

なおか はい。たけちゃんと出会い、こんなに優しい素晴らしい世界があるんだと思ったら、それを人に伝えたくなったんです。「語り部」と呼ばれることには、なんだか違和感があったのですが……。感動をしたことを分かちあいたいというか、伝えたいなあという思いが自然と湧き上がってきたんですね。

――影絵を提案されたのは小谷野さん?

小谷野 ええ。影絵をやってみようという話は、なおと最初に会った時にしています。『ぼくはうま』(注3)という絵本を読ませてもらって、彼女の物語の世界がすごく気に入ったんですね。

――どこで出会ったんですか?

小谷野 沖縄の久高島ですね。

なおか 私は、やらだ出版という出版社をやっていまして、その一作目に『ぼくはうま』をつくったんですが、そのご縁から2015年に沖縄の南城市の公演に誘われたんです。上演されたのは、小池博史さんが演出した「風の又三郎」という作品(注4)で、小谷野さんも出演されていました。私は一観客として彼に出会って、「すごい役者さんだなあ」と思っていたのですが、翌日友人と渡った久高島にもいらしていて、そこでお話するようになりました。

――その段階で何か生まれそうな予感は?

なおか それが全然なくて(笑)。わたしは自分が実際に体験したことを物語にして語っていきたかっただけで、舞台の人だった小谷野さんとは感覚が全然違うと思っていたんです。小谷野さんは「一緒にやろうよ!」みたいなノリだったんでが、私は何百歩も後ろに引いていて(笑)。

ただ、(2作目にあたる)『やどかりの夢』(注5)という絵本ができあがった時、毎回本に合わせた誕生祭をやっているんですが、「(沖縄の伝統染色である)紅型(びんがた)とバリの影絵の融合はすごく面白いと思う」と、小谷野さんに言われて。その時、なにかスイッチが入った感じがしたんです。

――「やどかりの夢」は全ページ紅型で描かれた作品ですよね。この物語を影絵で表現しようと?

小谷野 ええ。彼女の物語にある神話的部分と親和性が高いと思ったんです。神話の世界や夢の世界って論理的にありえないことが起きたりしますが、影絵だとすんなり描けるところがあるし、影絵の白と黒、光と影だけの世界のほうが観ている人も想像がふくらみますよね? きっとなおの物語にも合うんじゃないかと思って提案したんです。

――昨夜、影絵を拝見したんですが(こちらを参照)、あのストーリーはなおかさんが考えたんですか?

なおか 去年『やどかりの夢』の公演で何回かバリに行く機会があったんですが、そこでの体験がとても大きくて……。実際にバリに残っているお話からわたしなりの脚本を書いて、小谷野さんにそれをもとに演出していただいて。

小谷野 彼女の脚本を二人で練り上げていく形でいつもつくっていますね。

――神社に奉納する物語がバリのお話というのが面白かったです。

なおか いくつか作品はあるのですが、(再建祭に)どれが一番合うかと考えた時、あの作品が思い浮かびました。バリの神様の話ではあるけれど、日本にすごく通じるところがあると思ったんです。

「アボリジニの森」で感じたこと

――吉野の土地と関わることで活動が広がっていった感じがありますね。「ここがわたしの拠点だ」という感覚はありますか?

なおか わたしは多分、どこにいてもあまり変わらないと思うんです。どうしてもここに住まないといけないなんて思わないし、住んでいる場所には深いこだわりはない。ただ、その一方で、どこにいても「わたしはここに帰ってくるだろうな」という感覚があって……。

――そう感じるきっかけはあったんでしょうか?

なおか なんだろうなあ……。わたしのなかではアボリジニの人々と出会ったことがすごく大きくて、(旅で訪れた)アボリジニの森が肌に合ったというか、ずっと住みたいと思ったし、人ともすごくわかり合えて楽しかったですし。ただ、その森のなかでは幸せなんだけれど、わたしの生まれ持った命みたいなものを活かしきれないような気がして、「ここに住むということとは違うんだろうなあ」と、残念だけど、直感で感じていたんです。

――安住の地ではなかった?

なおか その頃、夢で見たのとまったく同じ二本の木がアボリジニの森にあったんです。アボリジニのおばあちゃんたちにその話をしたら、「その木があなたをこの森に呼んだのよ」って教えてくれたんですね。それで、忘れないようにその木の写真を撮ったりしていたら、その木が「そんなことしなくてもいいよ。戻ってきたい時はいつでも戻ってこられるから。そういうことができるよ」って、話してくれたんです。それより自分を見つめなさい、ということだったのかもしれません。そこから安心して「わたし」を生きよう、生きてみよう、と思えるようになったような気がします。

――おもしろいですね。

なおか 感覚的には、いまでも目を瞑るとあの場所に瞬時に戻れるんです。ヘンかもしれないですが、人間の持っている動物的な感覚? テレポーテーション? 詳しくないのでよくわからないのですが(笑)、そういうものがあるんだと信じられるようになってから、「どこにいてもいいや」と思えるようになって。

――どこにいても自分はおなじ、でも、いつでも帰れる場所がある……。

なおか ええ。たけちゃん(建皇子)のところ(注6)も、わたしにとってはそんな場所なんですね。わたしだけがお祀りする場所ではないけれど、わたしがこれからどこにいても、ここに対する思いというのは変わらない。いまわたしがここにいるのも何か理由があるからだと思うけれども、あまりその理由を探らないというか……ただ、いまはここにいさせていただいているという感じなんです。だから、いま、わたしがここでできることを一生懸命にやりたい、という気持ちです。

建皇子のお墓とされる保久良古墳の前で。

――それはどこにいても?

なおか (物語作家として)いろんなところをめぐらせていただいて、出会う場所が増え、その一つ一つの場所に縁ができ、大切な場所になり、そうやってつながっていけることをとても幸せに思います。自分の感覚を通してその場所とつながることができれば、「本当に世界はひとつなんだ」と実感として思えますよね? やっぱりそうなんだって。それが自分の気持ちを強くしてくれるんです。


旅をして、また戻ってくる場所

――仕事柄、小谷野さんも一年にいろいろな土地をまわられていますよね?

小谷野 そうですね、同じ場所に二週間といないような感じです。

――そうした生活はいつ頃からなんですか?

小谷野 ここ三年、特にそうですね。もともといろんなところに行っていましたが、この数年で動きが激しくなってきました。

――ご自身の仕事をどう伝えていますか?

小谷野 自己紹介では、基本的に「バリ舞踊家」と説明しています。バリではおもに仮面舞踊の修行をして、いまは舞踊を中心に活動しながら、影絵や演劇、音楽活動などもしています。

――バリが舞踊家としての原点なんですね。

小谷野 はい。ただ、バリで舞踊を習いはじめた時、「これは僕にはできないな」と思ったんです。この芸能はこの人たちのものだから、日本人である僕は学ぶことはできても、同じようにはできないだろうと。稽古すればバリの人たち以上にテクニックは身につくかもしれないけれど、そういうことでもないなと感じたんです。

――ただ真似るだけになってしまう?

小谷野 ええ。だから、日本人として学ぶなかで、日本人の身体性や感覚を通して新しいものが生み出せたら面白いなと思ったんです。以来、自分がバリで学んだことを使っていろいろな表現活動をしているというところですね。

――これまでいろいろな土地をめぐるなかで、どんなことを感じてきましたか?

小谷野 僕にとって好きな場所はたくさんあって、この吉野だったり、バリももちろんだし。ただ、どこかの場所に所属するというより、いろんな場所でいろんな人と関わることで生まれるご縁みたいなものが大切だと思っています。いまの時代、情報自体はたくさん得られるけれど、僕自身が本当にその場に行くということにすごく大きな意味や役割があると思うんですね。動いていくことで、情報だけでは得られない感覚が立ち上がってくるのを感じます。

――この吉野ではどうでしたか?

小谷野 論理的にはうまく説明できないですが、創作の原点となる場所だと思いますね。ここで何かをつくって、それを持って各地をめぐるという《始まりの場所》であり、同時に《戻ってくる場所》であるという……。

――なおかさんは?

なおか わたしにとって、ここは《再生を感じる場所》ですね。ここには悲しみととらえられる歴史もありますが、それは歴史をどう見るかなんだということも同時に学びました。それと同時に、なにか静かに深い悲しみを受け止める力のある土地だなとすごく感じています。

――そういう思いの人が引き寄せられるような……。

なおか みんなそれぞれ幸せだとしても、悲しみは持っているし、それを深く見つめたくなることはありますよね。吉野という地は、それを助けてくれる場所なんだと思います。悲しみを否定しないことで、とても生きやすくなるように思うんです。もちろん、悲しみだけではなく、光があれば必ず影がある。その両者を感じられる場所ではないかと思います。

――悲しみを見つめられる場所。

なおか (建皇子の古墳を守っている)叔母がいつも「ここには縁のない人は来られへん」って言うんですよ。叔母が(古墳の近くで)店をやっていた時も本当にいろんな人がやってきて人生相談したり、アーティスの方がやってきて、逆に癒してくれることもあったり。

保久良古墳の前で、叔母の廣田裕子さんと。

――循環していたんですね。

なおか そうした様子をずっと見てきたことで、この土地に心の奥を見つめ直す優しさと厳しさの両方を感じるようになりました。あまりフワッとしていないというか、ここにいると自分のなかに入り込んでしまうんですよね。

――吉野の歴史とオーバーラップしますね。

なおか その意味では、自分のなかの迷路に入り込んでしまうような、ちょっと重い場所でもあるかもしれませんけど……。


「かぜの子たけちゃん」が生まれるまで

――こうしたお話と関係があると思うんですが、建皇子(たけるのみこ)の話を伺ってよろしいですか?

なおか はい。建皇子は天智天皇の御子で、生まれつき耳が聞こえなくて、何も話せないまま8歳で亡くなったと言われているんです。

――なおかさんが建皇子と出会ったのは……。

なおか 最初、叔母から話を聞いたのですが、その時は「そうなんだ」くらいにしか感じなかったんです。ただ、ここのお墓(古墳)の前に立った時、まだお祀りを始める前だったんですが、とにかくものすごく寂しかったんですよ。

――それはいつ頃のことですか?

なおか 私が大学生の頃の話なので、もう20年くらい前です。本当に寂しい場所だったので、最初は可哀想だなって思っていて。それが、いろいろなご縁がつながり、叔母がお祀りするようになって、お祀りと言っても、草むしりや掃除をしたり、花をお供えしたり、手を合わせ気持ちを向ける、そういう淡々としたものですが。それで、この地が本当に変わっていったんです。

だんだん明るくなって、最初に感じていたような寂しさがみじんも感じなくなってきて……。(古墳にいたる細い道を指しながら)この参道はあとからつくったんですが、必要なタイミングで必要な人が来て助言をくれ、そして叔父や叔母を中心にして、みんなで改修していったんです。

――最初は何もなかったんですね。

なおか ええ。参道の下にはみんなで書いた般若心経が敷いてあるし、敷いている108個の石も海に拾いに行ったものだし……(古墳の前の木を指し)これも天武天皇にゆかりのある橘だと聞いています。「ここにこの木を植えるといい」というふうに教えてもらったのでそうしたんです。

――そうやって場が変わっていった?

なおか そうです。それで10年くらい前、「あなたが見てきたことや建皇子の気持ちを書いてみなさい。あなたならできるから」と言ってくれた方がいたんです。「自分には書けません」って言ったんですが、「わたしにいつも語ってくれる建皇子のお話を書けばいいんですよ」と言われ、「それなら書けるかもしれない」と思って……。

――どう書き進めたんですか?

なおか 「たけちゃんのお話を書こうと思うんだけど、それがたけちゃんにとっていいかことか、わたしにはわからない。もし書いてもいいのならわたしに書かせてほしい」って(お墓に)話しかけたんです。そうやってたけちゃんのお墓に通いながら、少しずつできあがっていった物語が、『かぜの子たけちゃん』でした。

歴史劇「かぜの子たけちゃん」より。

「天上の虹」と建皇子のメッセージ

――一緒につくったような。

なおか はい。それがわたしの一番原点のお話で、まさにここで生まれたんです。ただ、公表するのがすごく怖くて。歴史学や考古学の先生方の間で「ここは本当は建皇子の古墳ではない」とか様々なお話しがあるようで、わたしは……。

――自信がなかった?

なおか ええ。だけど、それと同時に多くの方が語りの場をつくってくださって、少しずつ続けていくなかで、去年、地元の大淀町のシンポジウム(注7)で初めて上演できたんです。

――10年かけて土地に溶け込んできたんですね。歴史の論争はもう気にならない?

なおか はい。「1300年前のことを知っている人なんて誰もいないじゃないか」って思ったら吹っ切れたんです(笑)。「正しい」とか「間違ってる」とかそういうふうにここを見ていなかったし、実際、誰もその時のことを見てきたわけじゃない。みんな何かしらをヒントに想像を膨らましているわけですよね? だったら、いまここに立っているわたしの感覚を信じればいいんだと。それを信じてみたかったんです。

――腹がくくれた?

なおか そう、腹がくくれて(笑)。精神的にすごくラクになれたし、逆に物語の力というものを感じられるようになったんです。

――なおかさんは、たけちゃんにどんな印象を持っているんですか?

なおか とても純粋で優しい、ということです。たけちゃんはお母さん(持統天皇)を想っている、と一番はじめに感じたんです。だからわたしは、「お母さんを悲しませないでほしい」というメッセージをたけちゃんからはじめに感じました。おそらくそれは、「争わないで」ということでもあると思うんです。

――いまの時代に必要なメッセージですね。

なおか すべての人がお母さんから産まれてきているわけだから、そのお母さんを悲しませないということがとっても大切なんだと、たけちゃんから感じさせてもらって……。

――あの時代にすごいですよね。

なおか 親族関係がとっても複雑だったし、(壬申の乱のような)争いもあった時代なので、たけちゃんはきっと人一倍憂いていたんじゃないかと思うんです。たけちゃんにとっては、もっとシンプルにみんな大好きな大切な人だったと思うから。そういうところを斉明天皇は歌のなかで「純粋で優しき皇子」というふうに残されたんじゃないかなと思っています。シンポジウムでご一緒した里中満知子先生とも、そういう話をさせていただいて……史料は残されていないけれど、彼の魂のレベルの大きさ、可能性は、これからの時代に発露されていくのかもしれないと思います。

――里中さんは『天上の虹』という持統天皇を主人公にした大作を描かれていますね。建皇子も出てくるんですよね?

なおか はい。だから、先生からも「あなた、頑張りなさいね」と言っていただきました。何をどう頑張っていけばいいのかなと思いましたけど……(笑)。すごく励まされ勇気をいただきました。

里中満智子『天上の虹』(講談社)より

「芸能」と「暮らし」が融合する時

――小谷野さんは物語をどう生み出し、どう伝えたいと思っていますか?

小谷野 僕が伝えたいのは、目に見える世界と目に見えない世界とのつながりだったり、人と自然との関わり、神様や精霊との交流だったり……バリの芸能を通じて学んだ一番大事なことでもあるんですが、「人は目に見える世界だけで生きているんじゃない」ということなんです。

――なおかさんの作品も重なり合う?

小谷野 ええ。彼女の作品を読んだ時、ちゃんとそういう世界を描いているんだなあと思って。なおは「何百歩も引いていた」なんて言うけれど(笑)、本当に素晴らしい内容だから何か形にしたいと、僕は最初から思っていました。

――目に見える世界と目に見えない世界、このつながりが大事なんですね。

小谷野 そこは芸能の力、マツリの力がとても大きいと思うんです。芸能には、目に見える世界と見えない世界、この二つをつなぐ役割があるというか……。たとえば、バリでも近代化が進んでいて、ひとりでスマホを3台ぐらい持っていたり、現代的な生活をしている人が多いんですが、その一方で儀式的なことも、芸能も、生活のなかに息づいているんです。

――両立ができている。

小谷野 ええ。だから、バリの人たちを見ていると、精神的にすごく強い人たちだなって思いますね。すごく深いところに根ざした(存在の)あり方みたいなものを強く感じるんです。

――なおかさんは、ここで活動していく意味をどう考えておられますか?

なおか わたしの場合、芸能からではなく、すべてが暮らしのなかから出てきていることなんですね。だから、小谷野さんと活動できたことで、日常から出てきた物語が芸能と出会って、あの影絵ができたんだと思います。同じ方向に向かっているけれど出どころが違うというか、そんなわたしたちから生まれる影絵がおもしろくて。

――おもしろいですね。

なおか わたしはいつも「自分はどう思っているか?」ということに気をつけているので、腑に落ちるまで向き合ったり、それまでは気持ちが悪いこともあるんですね。そのことで人にも迷惑かけちゃうし、家族や親しい人が許してくれるから何とか生きているんですけど……個人としては、すごく生きづらい、という時も多くあります。でも、それを治そうとしたら、もうわたしではないんです。

――わたしではない。

なおか 最近、やっと「生きづらいままでいい」「生きづらいままでどこまでやっていけるか」という感じになってきたんです。そういう気持ちになってくると、生きづらい分、まわりに助けられていることがよりわかるんですね。どうしようもない気持ちになった時、ここ(保久良古墳)にきてため息をついて、そこからまた何かをふっともらったり、腑に落ちたり……わたしが聞けば必ず答えてくれるから一番信頼感があるし、なによりもわたしをつねに受け入れてくれていることが有難いんです。話を聞かされているたけちゃんは、大変だなと思いますけれど(笑)。きっとそれは、わたしがわたしに問い続けているんだと思います。


自分のいる場所を「聖地」にしよう

――今日のお話で、吉野という土地の息遣いが少し感じられた気がします。

小谷野 ここって、名もない古い時代のいろいろなことが幾つもの層に重なっていて、有史以前、先住民の頃からの古い記憶が色濃く残っている場所であるような気がするんです。自分が創作する時、ある程度深いところにつながって下りていかないとつくれないのですが、ここはそれを助けてくれる場所だと思いますね。

――そうとらえると、観光地としての吉野とはまた違ったすがたが見えてきますね。

なおか そうですね。そういう場所は他にもあると思いますが、(吉野は)それがとてもわかりやすい場所なのかもしれません。実際、わたしのまわりでは、ただ何となく訪れる人より、心に何かを求めてくる人が多いですから。

小谷野 いま思い出したんですが、僕も大学生の時に何度が吉野に来ているんです。お世話になっていた仏教の先生が毎年高野山で合宿をされていたので、そこに参加した帰りに立ち寄って、あちこち歩いたり、山に登ったりしていました。

――小谷野さんもつながろうとしていた?

小谷野 当時の自分が何を求めてそうしていたのかわからないですが、(この土地に)自分の深いところとつながるものを感じていたんだろうと、いまにして思いますね。

――古い歴史がよみがえり、これからこういう土地を求める人が増えていくかもしれません。

なおか そうだと思いますが、わたしの叔母は、ここにやって来る人に「あんたの場所を聖地にしいや」って言っていたんです。「ここに来ると元気になる」というのもいいことだけれど、「自分のいる場所が一番の聖地だと思えないとあかん」と。

小谷野 それは、訪ねた時に何を感じたかということですよね。この古墳を訪ねるでも、山に登るでもいいけれど、それで自分が変わったとしたら、その時の感覚が大事なんでしょう。

――感じることが変化につながるんですね。アボリジニの森でも、吉野の里でも。

なおか ええ。わたしとしては、自然の流れで縁がある場所と出会って、それをただ大事に思うだけなんですけどね。

――大事に思うことでつながっていく。

なおか そういう場所を増やそうとするのではなく、ただ大事に思う。そして、いま実際にいる場所で自分のやりたいことをやる。

小谷野 そこまでできれば、どこにいたっていいし、それが、自分の居場所を聖地にすることにつながるんだと思いますね。

――ここを訪れることが、そうしたフリーパスを手に入れるきっかけになるような気がしました。今日はありがとうございました。

注1 アボリジニの森…オーストラリア先住民、アボリジニ、クク・ヤランジ族の暮らす森。「2008年、夢の中でこの森の存在とつながり、実際にご縁をいただいた」(なおかさん)という。
注2 建皇子(たけるのみこ)…奈良県吉野郡大淀町今木に現存する保久良(ほくら)古墳。天智天皇の第一皇子とされ、8歳で夭折したと言われている。
注3 『ぼくはうま』…「ありのままのひかり 命の輝き」を思いに、異なるアーティストの挿絵と共に制作したCD付絵本、やらだ出版の処女作。
注4 「風の又三郎」…宮澤賢治の物語を原作として、小池博史が演出した「小池博史ブリッジプロジェクト」の舞台作品。2014年10月に千葉県流山市にて初演。以来、東京(吉祥寺)、沖縄(南城市)、長野(長野市、茅野市)、宮城(仙台市)などで公演。
注5 『やどかりの夢』…「イマジネーションが世界を笑顔に!」をテーマに、沖縄伝統染色・紅型で全ページ描かれた絵本。やどかり音頭をはじめ歌って踊れるCD付。やどかり一座が編成され、国内外60以上で影絵音楽公演を実施。
注6 建皇子(たけるのみこ)…奈良県吉野郡大淀町今木に現存する保久良(ほくら)古墳。天智天皇の第一皇子とされ、8歳で夭折したと言われている。 
注7 大淀町のシンポジウム…「VOICE OF TAKERU」というタイトルで、2018年11月18日に大淀町文化会館で開催。漫画家の里中満智子さんを迎え、天智天皇の皇子・建皇子について、朗読劇、講演、パネルディスカッションを通して、その実像と伝承に迫った。

影絵の公演を行った吉野山・勝手神社にて。2001年、本殿が焼失したため、現在、再建に向けて様々な支援活動が続いている。

わたなべなおか Naoka Watanabe
物語作家、やらだ出版代表。 「命に寄り添う物語を。」の思いをもとに、世界一 小さな出版社「やらだ出版」を主宰。沖縄の久高島より言開きしたCD付絵本「ぼくは うま」をはじめ、沖縄南城市で創作したCD付紅型絵本「やどかりの夢」を刊行。流通をほぼ介さず「手から手へ」ご縁に育まれ、4000冊を完売。 その後、3作目となる実話をもとにした言葉のない活版印刷絵本「しののめ時間〜おばあちゃんの朝のしご と」を刊行。 「物語」から聞こえる世界を絵本の中心に影絵や音楽朗読ライブを通して、国内外で表現している。 その他、代表作に奈良県吉野郡大淀町今木に実在する保久良古墳を描いた手話語り「かぜの子たけちゃん」などがある。 バリ舞踊家小谷野哲郎とのユニット「ほしふね ☆」では、影絵やパペット、仮面を駆使しながら国内外で公演やワークショップを展開。

小谷野哲郎 Tetsuro Koyano
仮面舞踊・役者・影絵・音楽 ジュクン・ミュージック代表。東海大学音楽学課程在学中よりバリ島のサウンド スケープ研究のかたわら、バリ舞踊を始める。同大学院修了後、1995年よりインドネシア政府給費留学生としてバリに留学。 帰国後、プロのバリ舞踊家として活動を開始。バ リの仮面やガムラン音楽、影絵を駆使しながら、バリの枠にとらわれずに国内外で様々なジャ ンルのアーティストたちと公演活動やワークショップを展開。役者としてもコンテンポラリーの舞台などで活躍。近年では岩手県遠野市の早池 峯神楽の舞手としても活動している。 バリガムラン芸能集団「ウロツテノヤ子」主宰。 物語作家わたなべなおかとのユニット「ほしふね ☆」でも、影絵と仮面、語りを駆使したパフォーマンスで国内外で活動している。 日本インドネシア芸術文化交流オフィス「ジュク ン・ミュージック」代表。

ほしふね☆  hoshifune☆
仮面舞踊家小谷野哲郎と物語作家わたなべなおかとのユニット。 「自然」「風土」「夢」から得たインスピレーションをもとに、なおかの身体感覚を通した経験から創作した物語を小谷野が演出。 影絵や舞、語り、仮面を駆使して舞台作品化し、全国各地を巡っている。 2018年にはインドネシア・バリ島およびチカランにて公演とワークショップ。 2019年より、タイ・チェンマイの劇団Wandering Moonおよびサンフランシスコの影絵 演出家Larry Reed(ShadowLight Productions)との共同プロジェクトを開始。 共同制作により、2020年からタイ、日本、アメリカ他で順次公演予定。 海外にもその活動の場を広げている。
代表作に、 アイヌの伝説を影絵作品にした「カムイミンタラ〜神さまの庭」、アボリジニの森での体験からヒントを得て、フクロウと人との魂のつながりを描いた「ほしの子」、 バリ島の伝承をもとにした影絵と語りの両バージョン「神さまへの捧げのもの〜バリがバリと呼ばれる理由」、古事記の神代七世を描いた影絵と仮面による「あめつちのはじめ」、古くから続く水の道の物語「メグルタイコノミズ」など。

2016 北海道白老町「TOBIU CAMP」参加
2017 山梨県西湖「マンモスパウワウ」出演 。
2018 インドネシアツアー。奈良県天理市「Story Time」出演 。
2019 タイ・チェンマイの劇団「Wandering Moon」との共同制作プロジェクト開始。「あめつちのはじめ」台湾公演。他
★instagram:  https://www.instagram.com/hoshifuneya/