「棚田の光景を見てすごく感動して…、ここに住もうと直感的に思いました。日本人がつくってきた《生命の彫刻》そのものです」(林良樹インタビュー)

カメラマンの井島健至さん・春さんご夫婦と連れ立って、千葉県の南端、南房総の鴨川を訪れたのは、2019年、まだ肌寒い1月中旬のこと。鴨川の棚田を保全している林良樹さんという、前年に脱稿した『フードジャーニー』の世界を体現したような方がおられることを井島さんから聞き、なにはともあれ取材してみようということになったのです。

林さんは、世界中を放浪した果てに、この土地の1000年つづく棚田に惹かれ、以来、20年にわたって土地に溶け込み、新しい暮らしをつくりあげてきました。

鴨川の一帯は、かつての安房の国。黒潮に乗って阿波(徳島県)からやってきた人たちが土地の開拓に携わってきたという伝承のまま、いまも外部からの“まれびと”がこの小さな国に生命を吹き込もうとしています。

僕たちが目にしたのは、未来を先取りしたかのような心地よく、クリエイティブな生き方。林さんに案内されるまま高台に向かい、寒空のもと、一面に広がる田植え前の棚田を目にした瞬間、なにか圧倒されるような感覚がしずかに押し寄せてきました。

撮影:井島健至(カメラマン) 


森の循環をとりもどす

林 (棚田を見渡しながら)ここは、1000年かけて里山文化をつくりあげてきたんです。森だった山を少しずつ伐って、開墾しながら水田に変えて、村と里山と奥山という3つのエリアを使い分けて……。

——奥山?

林 奥山は、神と動物の領域として滅多に手をつけず、里山を持続可能になるよう手を入れて村の資源とエネルギーを確保して、砂漠にしない文化をつくってきた。そのシンボルが炭焼きであると、長老が教えてくれました。
里山に釜をつくって炭を焼いて、釜を移動しながらまわりの林を伐採し……最初に伐採した森に15年後に戻っていくと、その過程でひこばえが生え、胸から腿のちょうどいい太さになっているわけです。それを焼いてまた炭にする……そうした循環をずっと繰り返してきたんです。

——それが代々受け継がれて……。

林 そう。いま僕たちが引き継いだところなんですが、日本では炭を焼く人がいなくなってしまって。戦後エネルギー革命が起きて、石油や石炭などの化石燃料が手に入るようになることで、森のエネルギーを使わなくなりました。その結果、森の循環が途絶え、山が荒れ、動物たちが増えるという悪循環が起きて。昔には戻れないんですが、僕たちは再び森と山とつながる暮らしをやっていこうと思っているんです。ここで自分の食べ物をつくり、うちにはコンポストトイレもあるので、食べたものを排泄して肥料にして、棚田に蒔いてまた米をつくり、それを食べる……そうやって僕と土が一体化していくんです。

——ああ、それも繰り返しなんですね。

林 ええ。ですから、この風景が僕の体の一部に思えるんです。この1000年……無名のお百姓さんたちが続けてきた営みがうつくしい風景を生みだしてきましたが、それは日本人がつくってきた生命の彫刻そのものです。僕にとっての平和活動であり、芸術活動であり、社会運動であり……ここでの暮らしにはそのすべてが詰まっているんです。


棚田を見学した後、林さんの自宅がある古民家「ゆうぎづか」に移動。
鴨川に移住後、電気・水道・ガス・台所・風呂のない、築200年という廃屋に近い建物を夫婦でリノベーションしながら、シンプルで心地よい住空間に変えてきました。
「ここが素晴らしい場所だといくら話しても、最初は誰も信じてくれなかった。棚田を守ってきた長老たちも、その価値が信じられず、さびれる一方の過疎地だと思っていたんです。僕自身、最初はオウムと間違えられ、何しにここへ来た?と凄まれました(笑)」
スライドを操りながら、林さんが自らの半生について語りはじめました。

自分の居場所を探しつづけて

僕は絵を描くことが好きで、最初に頭のなかにイメージが浮かんで、それを紙に写す……先にイメージが浮かぶんですね。そんな子供だったんですが、小学校2年生の時に僕の人生を変える事件が起きました。「星野事件」と言うんですが(笑)、始業式の日、担任の先生が入ってきて、みんな漢字の練習をしてねと、星野と自分の名前を黒板に書きました。

僕はすばらしいアイデアが浮かんで、星の絵を描いたんです、漢字を書かずに。先生に喜ばれるだろうなと思っていたら、めちゃくちゃ怒られて。親が呼び出されて、「この子は進学も就職もできない、まともに育ちません」って。彼女の予言は当たりだったんですけど(笑)、すごいトラウマになって、それ以来、自分の居場所を探すようになり……高校を卒業すると車に絵を描いて、日本を旅するようになりました。

ONE LOVE ONE HEART. ……ボブ・マーリーの歌詞にあるんですけど、路上にLOVEを書いたり、古いハーレー(ダビッドソン)を買って、いろいろな部品を外してシンプルにしたり。チョッパーというんですが、「いらないものをチョップする」という意味なんです。1950年代、チョッパーという文化が生まれ、ビートやヒッピーの文化とクロスすることで、「いらないものを切り離す」という考え方が広がりました。

僕も、いらないものをチョップして、1990年、22歳の時にハーレーでアメリカを旅することになりました。当時、昼はカメラマンのアシスタント。夜はレストランバーで働いていたのですが、そのレストランバーに集まってくる不良のおじさんたちと一緒に旅に出たのです。

ハーレーでアメリカ大陸を横断

メンバーは、原宿にある「ゴローズ」というインデアン・ジュエリーの店のゴローさんと、僕が働いていた麻布のバーテンダーのデニーさん。彼らとロサンゼルスから陸路、ロッキー山脈を渡って、北へ北へ……。ハーレーに乗って、キャンプしながら、サウスダコタ州のスタージスという町で、バイク乗りのウッドストックと呼ばれる、50万が集まるバイカーのお祭り(モーターサイクルラリー)に参加しました。

50万人が一つの自治区を作って、一週間をすごすのですが、南房総全域で15万人ですからとんでもない数ですよね。そこではじめて地域通貨を知りました。自分たちのお金を使い、警察もいないので、ライフルを持った自警団が馬に乗って自治を行って。地平線の一面にテントが並んで、テントにはモーターサイクルが横付けされ、夜になると焚き火をして……外から見れば「マッドマックス」みたいなんですが(笑)、なかに入るとピースフル。「自分たちのコミュニティでこういうことができるんだ」と実感しました。

「私は地球人です」

それから、同じサウスダコタにあるスー族の居留地に入っていきます。彼らは、自分たちのことをアメリカ人と言いません。アイム・スー(I am Sioux.)って言うんですが、スーは人間という意味。アパッチの言葉ではアパッチが、ナバホの言葉ではナバホが、やはり人間という意味なんです。

国っていう概念がない。みんな「私は地球人です」って言っているようなものですよね。そこにもすごくショックを受けました。 先住民たちと一緒にバイクで旅をしていると、突然、空を指さすんです。一日に何度も指さすので、「どうして?」って聞くと「お前見えないのか?」。よく見ると、米粒ほど小さなUFOが飛んでいるんです。「どうして空を見ていないのにわかるの?」というと、「エッ、感じないの?」。「……ゴメン、感じない」「見るんじゃないだよ」って。

かつては、自然界とコミュニケーションする能力を誰もが持っていたはずなのに、文明を持つことで退化したんだなって。こうした先住民の世界観に触れることで、「ミタクエ・オヤシン=すべてはひとつ」ということも教わりました(注1)。彼らには「ビジョンクエスト」という、子供から大人になる通過儀礼があります。森に入り、一人で自然と対話して、今生でやるべきことが見つかったらコミュニティに帰っていく……それが大人になるということなんですね。

僕もそれをやろう! 裸で森に入ったら死んでしまうと思ったので、地球を旅しようと思いました。自分のミッション、ポジションが地球上にあるはずだと信じて……。

放浪先で出会った理想郷

帰国後、まずバイトを始めました。400万円を貯めて バイクを全部売って、荷物をひとつだけにして、いまの奥さんと旅に出ました。

直感がガイドです。目、耳、鼻、舌、皮膚、心……すべての感覚を開いて、先住民のように感じようと思いました。最初に訪れたのはアジアです。(インダス文明発祥の地である)インドのラジャスターンで、水のない苦しみを初めて体験しました。そして、砂漠化してしまった大地を見て、自然破壊の恐ろしさを皮膚感覚で知りました。
それからイスラム圏をへてギリシャへ行きます。古代ギリシャの図書館を見て、文明は崩壊するんだと感じました。当時の最高の建築も学問も美術も……矯正しなければ滅びてしまう。人類は、何度も何度も滅んできた。今度は地球規模で滅ぼうとしている。でも、どうしたらいいのか? わかりませんでした。

それからヨーロッパに入ります。イタリアでメッセンジャーに会いました。インドで出会ったバックパッカー、ジョバンニと友達になって、とても素敵なやつだったので、彼に会いに行ったのです。彼は、ひげもじゃのビートの詩人みたいな、ダリンという農夫の家に居候していたのですが、その手作りの家や農園が最高に美しくて。

自然農が行われていた農園には、種があちこちで蒔かれ、あちこちからいろいろな芽が出ていて、そのひとつひとつの芽に「踏まないで」って看板が差してあって(笑)。歩くところに麦のわらが敷いてあって、そこを裸足で丁寧に、丁寧に歩きながら暮らしているんです。

電気がないから、夜は明るいうちからみんなでご飯を食べて。月がない時はものすごく暗いし、月が出ていたらみんな外で会話して。ハーブ畑のなかに白馬がいて、満月に照らされて青く輝いて……「なんだこの暮らしは」って。そこに滞在している時間と空間のすべてが美しく、これこそが生きるアートなんだと。自分という存在が絵筆となり、地球というキャンバスにいのちのアートを描く……。こういう暮らしこそが世界を変え、自分を豊かにして、人生を美しくしていくんだと実感したんです。

足もとに大事なすべてがあった

ある時、ダリンは「こういう暮らしを日本から学んだんだ」って、僕に言いました。君はずっと世界を旅してきたようだけど、そろそろ日本に帰れよ。君の国には世界に貢献する文化がある。いままでの西洋を中心とした文明は、奪って奪って奪ってきたけれど、これからは調和していく文明になる。それが君の国の足もとにあるんだって。もう世界を見るのもいいだろう? 君の国の足もとを見ろよ、と。そして、福岡正信(注2)に会いなさい。『わら一本の革命』のイタリア語バージョンを読んで、自分の人生が変わったんだって。

最初は、「ええ〜、そうなの」って思いました(笑)。でも、話を聞きながら「そうかもしれないな」と思い、ロンドン経由で日本に戻って、京都の本屋で『わら一本の革命』を見つけて、初めて読んだんです。「おお、これか!」って。早速、愛媛にある福岡正信さんの家に行きました。

1998年のことです。福岡さんは「もう人間には会いたくない、帰れ」と、会ってくれませんでしたが(笑)、彼が実践している自然農の風景を見て、こういう場所に住もうと決心しました。それから農村めぐりを始めます。京都、四国、群馬、奈良、屋久島……最後の屋久島で再びメッセンジャーに会いました。

「千葉の鴨川に行きなさい」

僕たちは田舎に住もうと思って九州まで来たのに、「なんで鴨川なの?」って聞いたら、その人は新潟出身の看護婦さんだったのですが、「私はそこに住むのが夢なんです」と。

彼女が言うには、「雪は降らず、気候が温暖、海の幸と山の幸があって、美味しいお米があって、一年じゅう花が咲いて、野菜がつくれて、人がほがらかで……そんな天国ある?」って。それで、屋久島から鴨川に来たんです。そして、あの棚田の光景を見てすごく感動して……ここに住もうと直感的に思いました。

1999年、僕たちの鴨川での暮らしはこうして始まったのです。

私という存在は、本来、土地や空間と切り離すことはできません。その土地に住む生き物(動物、植物、微生物)とのつながりと、祖先がつむいできた歴史や文化というつながり……そのヨコ軸とタテ軸をクロスさせた中心に、個と全体がゆるやかに結ばれた「わたし」が生みだされます。個と全体が切り離されたいま、「わたし」と出会うための場をどうつくっていくか? 林さんとの対話が始まりました。

ここにいると希望ばかり

林 いま大学生が研修に来るんですが、これまでのように東京で就職するのではなく「ローカルで何かやりたい」という人が増えていて、価値観が逆転しているんです。そういう若者って、すごくアンテナが高くて。こっちが教わる感じがしています。

ーー平成の30年をかけてゆっくり社会が変わってきた気がしますね。

林 普段、テレビとか見ないですが、世間一般は暗いニュースばかりですよね。でも、ここにいると希望ばっかり(笑)。

ーーテレビをご覧にならないんですか?

林 20代から見てないですね。子供たちも生まれた時から、テレビなし、新聞なし、雑誌なし。友だちと話が合わなかったと思いますが(笑)、コミュニティが育ててくれるんです。素敵な大人ばっかりですから、別にいいじゃんみたいな。小学校、中学校の頃は苦労したと思いますが、高校生になって「うち、テレビなくてよかったわ〜。あんなくだらないものに時間割かなくて」って言うんです(笑)。

ーーいやいや、すごいな。

林 そういう価値を認める大人がいて、コミュニティがあって……自然環境とコミュニティが最高の教育の場だったと思いますね。アメリカ人がここで田んぼをやるのが当たり前という環境で育っていれば、学校の友だちと話が合わなくても全然OKなんだっていう。

ーーアメリカ人?

林 翻訳の仕事をしているクリス(・ハリントンさん)ですよ。彼のようなアメリカ人が移住してきて、普通に田んぼをやっているわけです。一般家庭では当たり前ではないかもしれませんが、ここでは多様な生き方のひとつとして普通にあって、たぶん、それが子どもたちにとってすごくいいことだったと思いますね。

ーー確かにすばらしい環境ですよね。

林 大人にとってもすごくいいし、ここに来る都会の人も「こんな生き方があるんだ!」っていうことを発見してもらえるし。

棚田を見学した後、林良樹さんと対談


分散するエネルギーの時代

ーーいまの世の中って、価値観が均一になっていて、違いが比較できないじゃないですか。体感できることが同じであるというか。違いがわかってそこにいるのであればいいですけど、麻痺しちゃって……。

林 ええ。それがストレスになって、心や体が病気になって……。

ーーじゃあ、何ができるのか? 最終的にこういう場がないと、どうしたら自分を変えていけるかが見えにくいと思うんです。

林 ただ、皆が皆、突然田舎に移住できないので、まず通える関係をつくりたいですよね。

ーーええ。それでちょっとクレイジーになった人が移住すればいいんです(笑)。強迫観念になってしまうと良くないですから。

林 都会が絶対悪ではないし、都会には都会のすばらしい役割があるので、おたがいにいい関係がつくれたらと思いますね。

ーー対比することで、どうしても二元論になっちゃうじゃないですか。何が善で、何が悪か、みたいな。そうした窮屈さを気づくたびに捨て、少しずつ視野を広げていく。そのうえでここに主体的に関われる人は、自分を変えていける人だと思う。

林 都会と田舎がつながることで、おたがいが補えますからね。田舎には、文化とかアートとか人工的な表現が少ないですし、都会のなかに自然が増え、人のつながりが生まれてくればもっとすてきな場所になると思うし。

ーー昔、都落ちした貴族が武士になってこのあたりを開拓したりとか、外から来た人たちが融合して新しい文化を作ってきたわけです。だから、東京であぶれちゃって、そこでは落ち武者みたいになった人でも、再生されてかえって凌駕するようなことってあると思う。京都からこぼれ落ちた人たちが鎌倉幕府をつくったみたいに(笑)、過去にそういう例はいくらでもあったわけですから、いまだってわからないですよ。

林 ええ。これからはもっともっと集中から分散に……その分散するエネルギーが世界中のローカルとつながっている時代だと思いますね。



「800人の奴隷」を解放させよう

ーーある先生が、石油エネルギーなどの力で、一人の人を生かすためのエネルギーが昔の40倍になっている、と言っているんです(注3)。

ということは、一人一人の生きる力が40分の1に落ちてしまっていると。確かに、昔の人に比べたらそのくらい個々のエネルギーが落ちていると思うんです、便利になりましたからね。でも、そうやって過剰になった分、負担がかかっているわけです。効率の悪いことをやっているし、人工的に寿命を延ばしている面があるから、普通に考えたら、あまり自然なやり方ではないかなと。

林 いまのグローバリゼーションのなかで、「一人の人間の背中には800人の奴隷がいる」とも言われていますね。

ーーああ、同じような感覚かも。

林 それをすべてお金で解決しているわけですよね。でも、ここにいると首都圏3600万人の一人ではなく、25世帯の村の一人になるんです。コミュニティの一員としての役割があって、人間社会のなかでの役割も、自然とのコミュニケーションのなかでの役割もすごく感じられる。自分が生きている実感とか、リアリティ、アイデンティティを身体的に感じることで、心の充足にもつながっているんですね。

ーーすごいシンプルだなあって思いますね。頭のなかでは難しく考えてしまうかもしれないけれど、あまり重いものを背負わないで生きていられるというか……奴隷をそんなにたくさん背負うのって、大変だと思うんですね。

林 そうですね(笑)。

ーーラクしているようで、その負荷は……。

林 結果として自分に返ってきていますからね。空気を汚して、大地を汚して、水を汚して。

ーー不健康な権力者みたいな感じで。

林 それが気づかれないように社会が設計されているので、いろいろなところでひずみが生まれ、子どもだったり、お年寄りだったり、弱者にしわ寄せがいっているでしょう? ……それが僕だったんです。子供時代の(笑)。

ーー僕も似たようなものかも(笑)。

林 なんだか生きづらいなと。それが、ここに来てひとつひとつひも解かれ、解放されていったんです。これでいいんだって。

対談後、カメラマンの井島健至さん(左)を交えて。

あぶれ者が歴史を変えてきた

ーー子供の頃、スイスイ行っていた人って、あまり自分のこと問わないところがあると思うんです。逆に「生きづらいなあ」という思いが哲学の芽生えにもなるわけで、当時は大変だったけれど、(いま思うと)よかったなあって。

林 いつの世も、社会の不適合者が居心地悪いと感じて、動いてきたんだと思うんですよ。

ーー時代を変えるのは、あぶれ者ですから。

林 ゲバラも、ジョン・レノンも、ガンジーも……浅葉のお母さんも(笑)。(注4

ーー偉人と一緒になっちゃいましたね(笑)。

林 居場所がないからつくったんですよね。だから、居場所がないやつ、万々歳なのかなと、最近思うようになりました。

ーーフロンティアを求めますからね。求め方にアプローチがいろいろあるから、平和的なやり方がいいと思いますけど。強引に居場所を作ってしまうと、自分に返ってくるから。

林 いまの時代は、平和的に居場所がつくれる時代だと思いますね。

ーーええ。そういう感覚が、共通の認識として育ってきた感じがします。昔は単なる落ちこぼれとか、それこそヒッピーみたいな……でも、もうそういうくくりではなくなってきている気がします。

林 伝達のスピードも早いので、そんなに力一杯大声を出さなくても、自分なりの表現を淡々と発していけば共感してくれる人がどんどんと集まってくると思いますね。

ーーあんまり無理しないほうがいいですよね。その時盛り上がっても続かないですから。

林 ええ。自分の体も心も自然体で、快のほうに歩んでいけばいいと思いますね。

写真は「小さな地球のコモンズ(Commons)誕生」から。

土地と歴史につながった自分

ーーお話を聞いて、林さんの背後にはこの土地で暮らしてきた無数の人たちが生きているように感じました。土地のつながり、歴史のつながりも含め、時間と空間が合わさって、いまの自分が成り立っているという……。

林 そういう情報みたいなものが、その土地土地にあったんだと思いますね。

ーー本当はあったというか、本来はどこにでもあるはずですよね。

林 ええ。東京でも、アスファルトの下でも記憶が残っているんだと思います。

ーー僕もそう思いました。でも、都会という場ではものすごく耳を澄まさないとならなかったり、踏ん張らないといけなかったり……。

林 そうかもしれないですね。そういう記憶をつなげていく感覚が個人の内面にあって、美とか喜びを媒体にジョインされていくという。

ーー「情報って何だろう?」って考えた時、直感的に「こういう場所が情報なんだな」って感じました。情報化社会っていうけれども、本当の情報は自然のなかにあるというか……自然が情報なんですよね。思考を超えたところにある情報を伝え、共有していきたいと改めて思いました。

林 そうですね。そうした情報は独り占めできないし、かといって、なかなか言葉とか文字に表現しきれないので、まず時間と空間を共有していく。時間と空間に価値があり、そこに密度の濃い情報があるはずなので。

ーーまだまだほんの触りだと思いますが、今回、鴨川を訪問して、一見何もない空間に膨大な情報が広がっていることを感じました。たった数時間しかいないのに(笑)。

林 いえいえ、僕もそう思うんです。

ーーこれからいろいろと育てていかないと……。

林 なにか一緒にやりましょう。僕は、この鴨川を舞台に、日本らしい形の共生社会のモデルをつくりたいなと思っているんです。

ーーええ。統合的に学べる場というか、学問も分断されているので、部分からかろうじて全体を想像するような、それも個人のセンスに頼っているところがあるから、もっと出発点から統合して学べるようなものをつくっていきたいですね。直接伝えられないものを間接的に伝えていくのはなかなか大変なんですけど(笑)、これからもよろしくお願いします。

林 こちらこそよろしくお願いします。聞いていただいてありがとうございました。

注1 ミタクエ・オヤシン…ネイティブ・アメリカンのラコタ族に伝わる言葉で、「ミ」(=私の)、「タクエ」(=つながり)、「オヤシン」(=すべてのもの)を意味する。
注2 福岡正信…1913〜2008年。自然農法の提唱者。不耕起、無肥料、無農薬、無除草を特徴とする自然農法を生み出し、実践した。著書に『自然農法 わら一本の革命』(春秋社 1983年)など。
注3 池田清彦・監修『人の死なない世は極楽か地獄か』(技術評論社 2011年)所収。
注4 浅葉和子……ASABA ART SQUARE主宰。詳しくはこちらのインタビューを参照。

林良樹 Yoshiki Hayashi
1968年、千葉県生まれ。地球芸術家。NPO法人うず理事長。様々な職業を経験した後、アメリカ、アジア、ヨーロッパを放浪。1999年、鴨川の古民家に移住。「美しい村が美しい地球を創る」をテーマに、釜沼北棚田オーナー制、無印良品 鴨川里山トラスト、釜沼木炭生産組合、地域通貨あわマネーなど、人と自然、都会と田舎をつなぐ多様な活動を行っている。その活動は、芸術、農、教育、自然エネルギー、エコビレッジと幅広く、そのすべてが「持続可能な社会づくり」へとつながる。近年では、企業(無印良品、モンベル)、大学(千葉大学、筑波大学、東京芸術大)、自治体(鴨川市)など、組織の垣根を越えた連携も進めている。著書に『スマイル・レボリューション〜3・11から持続可能な地域社会へ』(加藤登紀子・林良樹 白水社)がある。
★里山という「いのちの彫刻」
http://www.muji.net/lab/blog/kamogawa/