「密教の修行によって、一瞬でゾーンに入って集中力が増し、想いが届きやすくなるんです」(大塚知明インタビュー②)
世界遺産に指定された吉野・高野山・熊野……山岳信仰の一大スポットとも言える紀伊山地の北端、古来、桜の名所として知られる吉野山を遠くに仰ぐ小高い山の一隅にご祈祷寺として名高い・大師山寺(真言宗醍醐派・大師山妙法寺)があります。
このお寺の住職をつとめる大塚知明さんは、弘法大師・空海が開いた真言密教の僧侶であると同時に、修験道のエキスパート。真言密教最大の荒行と言われる八千枚護摩供養をはじめ、厳しい修行を続けながら、メンタルはつねに平常心、人を包み込む優しさとわかりやすい法話で、由緒あるお寺を守りながら、若い山伏を育て、一般の人たちを山へ導き、さらには地元ラジオのパーソナリティを務めるなど、多岐にわたる活動を続けています。
今回は、吉野に訪れたご縁で知り合った大塚さんに行ったロング・インタビューを、前後編の二回に分けて紹介。厳しい修行を続けるのはなぜか? 空海の遺した密教の本質とは何か? たっぷりと語っていただきました。今回はその後編(長沼敬憲)。
★前編:「一生懸命願う気持ちは、時空を超えて人に伝わるものなんです」(大塚知明インタビュー①)
体力を落とすことで集中力が高まる
――弘法大師空海が開いた真言宗の修行について、もう少し教えてください。
大塚 真言宗の中で一番の荒行と言われているのが八千枚護摩行であり、弘法大師さんがあちらこちらでやっていたという求聞持法という修行法で、この2つが一番ご利益が多く、修行として厳しいとされています。
皆さんも何かを成し遂げようとした時、必ず障害があると思いますが、八千枚護摩行でも、毎年、毎回(そうした障害が)かなりあります。妻からも、断食の期間を短くしたらとかいろいろ言われるんです、本当にげっそりとするので(笑)。
――まわりの理解が何より大事そうですね(笑)。
大塚 まわりの理解と、修行ができる環境ですね。
――厳しい断食でフラフラになるのと集中力が高まるのと、結びつかない印象があるんですが……。
大塚 座っている間にフラフラになるわけではなく、動こうとするとフラフラになるということです。おそらく血圧が下がるんでしょうね、お医者さんには低血糖状態だと言われたこともあります。だから、じっと座っている状況ではすごく集中しているんですよ。
――集中というのは、雑念がなく、一つのことに意識が向かっている状態ですよね?
大塚 本当の集中は、目の前のことに集中しているのですが、まわりのことが明確にわかるんです。まわりが見えなくなるのではなく、まわりのことが見えながら目の前のことに集中できることなんですね。
――よく「集中するとまわりの音が聞こえなくなる」と言いますが……。
大塚 それもひとつの集中なんでしょうけれども、私が修行で体感してきたものは、それとは違う集中ですね。八千枚護摩の修行を始めた時、断食は3日間だったんですが、じつは断食は3日目が一番しんどい。胃の中が気持ち悪くて、その時に結願を迎えるのがものすごくしんどかったので、日にちをもう少し増やそうと思って最初は5日にして、次に7日にして……と増やしていったんです。そうすると4日目からラクになっていくというか、集中しやすくなるんですね。
――期間を延ばしていたほうが、かえってラクになる?
大塚 思考能力は低下するのだと思いますが、考えるということはじつはすごく体力がいるんですね。断食をやるとよくわかるのですが、食べるのにも体力がいる。噛んでいるだけでも体力がいるからしんどいんです。だから、食べないほうが逆に楽になるんです。
あと、寝るのにも体力がいります。最初の年は、寝る体力がなかったからだと思いますが、寝ていてもだいたい3時間くらいで目が覚めるんです。よくお年寄りが寝られないといいますが、これは体力がなくなるからなんでしょうね。
――体力を使うことを減らしていくことで、祈りに集中していくという……一般的な感覚とは、まったく逆なんですね。
大塚 お寺にプロボクサーが来ることがあって、いろいろと話をするなかで、断食と減量ってよく似ているなと思いましたね。体を動かしながら減量するというのは、同じ境遇と言うか、減量によって集中力が増していっている感じなんですね。
あと、お年寄りのなかには天寿をまっとうされ、老衰で亡くなられる方がいますが、そういう方の気持ちもわかる気がしますね。そのように人のいろいろなことがわかることも、修行の成果かなと思います。
――集中力と願いが叶うということが、修行の過程で重なり合っていく感じでしょうか?
大塚 集中することに加えて、やはり圧倒的なイメージ力ですね。普通の仏教と密教の違いでもあるんですが、密教にはそのイメージすることが事細かに書かれているんです。それが、空海さんが中国へ行って持ち帰ったもののすごさですよね。
「この仏さんの場合はこんなイメージをしなさい」といったことが事細かに書かれている。修行することはイメージ訓練をさせられているようなもので、頭のなかでずっとイメージつくりあげていっているんですよ。
密教とはイメージ力である
――密教そのものの核にイメージがある感じですね。
大塚 何もない平地を耕し、地面を整地して、そこに石を置いて、その上に柱を立てて……というように、頭の中で一つひとつイメージして、イメージができあがっているから、大工さんは物差しがなくても家を建てていけるわけですよ。この間隔でこの高さで、ここに梁を入れてと、頭の中でずっとイメージしているんですね。密教では、このイメージの過程がずっと書かれているわけです。
――なるほど。
大塚 私たちは、つねにそのイメージ力を訓練しているんです。じつは密教ってイメージ力の訓練そのものなんですね。仏さまの前に座った瞬間、どういうふうにイメージするかによって、その場所の空気を変えてしまうわけです。
――ただ座って拝むわけではなく、そこにイメージが伴うと。
大塚 簡単に言えば、コンサートに行きました、目の前で一人の歌手が演奏して歌っているだけで、みんながイメージを共感しますよね。共感した瞬間、この空間はコンサートホールになっているわけです。みんなの気持ちが高揚するでしょう? なぜかと言ったら、みんなでイメージをつくりあげているからなんです。
コンサート会場が光や音を出したりするのはイメージを追従させて、鮮明にさせるための装置のようなものですよね。音を出すとか、目の前でショーをしたり、そうやって聴いている人たちのイメージを膨らませてあげるわけです。その瞬間、自分の心の中から高揚感が出てくる。そして、集中力にどっぷり浸かっていくわけです。
――密教は特別なもののようなイメージがありましたが、原理は同じなんですね。
大塚 集中力が増していき、最後に「ああ、やった!」「よかった!」という達成感が残っていくでしょう? 密教はそうしたイメージ力が古くから相伝されているわけです。そのイメージ力というものを、いろいろな形でつくりあげることによって、頭の中でつねにイメージの訓練をしている。だから目の前にお不動さんがいると思えば、お不動さんが目の前に現れるんです。目の前に現れてくるから、その人のイメージでいろいろな供養をしたり、願ったりできるわけです。
――祈りの対象が生まれると、祈る力も倍加しそうですね。
大塚 そうです。お不動さんが目の前にあるということをイメージできるからこそ、そこに集中力が増していく。先ほど言ったようにコンサートでみんなが「わーっ」となって、みんなが一体となって盛り上がることで、自分の心のなかに悩みごとや苦しみなどの感情をいったん消して、新しいイメージがそこにできあがる。その瞬間、自分のなかに新しい気づきや発見が生まれるんですね。
――コンサートでも、確かに似た体験はあるかもしれません。
大塚 コンサートに行って「今日良かったよね~」と気持ちが盛り上がるでしょう? その気持ちというのは人間の多幸感、幸せに思う気持ちなんですよ。密教では、それを疑似的に仏さんの前で毎日行っているんです。密教はすごいもので、そのイメージがきちんと書かれていて、それをずっとやっていけば、訓練ですからやればやるほど早く、そのイメージに達することができるわけです。
――なんとなくやっていることを緻密に、明確に、具体的に……。
大塚 よくスポーツ選手が「ゾーンに入る」と言いますが、一瞬でそのゾーンに入るわけです。入った瞬間に集中力が増して想いが届きやすくなります。自分の気持ちを届ける方法、技ができあがっていきます。自分が一生懸命仏に向かって拝んでいる気持ち、想いが、めぐりめぐっていろいろな人に作用していくんです。
――なるほど。それが御祈祷のメカニズムなんですね。
大塚 たとえば、腹を立てて机を叩いたら、その瞬間、「この人は怒っているな」とわかりますよね。それは、音によって思いを伝えているわけです。
ただ机を叩くだけでは、音量も音質も一緒です。でも、そこに気持ちが入るからこそ、「あっ、この人怒っているな」とわかる。私たちはつねにそのイメージを蓄えて拝んでいるわけで、拝んでいるところにその気持ちが乗ってくる、だから、伝わる。要は、気持ちをきちんと乗せられる人たちが伝えることができるんです。
心が伴わなければ意味はない
――大塚さんは、祈りは時空を超えて伝わるとおっしゃっていますよね?
大塚 「そういえばあの人どうしているかな」と思う時があるでしょう? ああいう瞬間って、向こうの人もそう思っているわけで、それが伝わってくるんです。ラジオの周波数を合わせるようなものだという人もいますが、相手の気持ちがわかる瞬間というのは、その周波数が合った状態と言えますよね? 人間というのは心の状態によって出す周波数が違いますし、周波数によって伝え方、伝わり方も違ってくる面もありますし、科学的にもそういったことはあるのかもしれません。
――テレビなどのコマーシャルも、きっと同じ原理なんでしょうね。
大塚 コマーシャルでジュースやお酒を飲んでいる姿を見て「私も飲みたいな、だからコンビニに行こう」と思い、ひとつ商品を手に取る。これを何万という人が行うからコマーシャルの効果が出るわけですよね。
ご祈祷の場合も、「幸せになってほしい」「誰々と出会ってほしい」「誰々と結婚してほしい」と想う気持ちが誰かに伝わって、出会いが生まれるかもしれないですよね。そういう効果が、イメージを持って集中して拝むことによって生じていくんです。ご祈祷するということの本質はそれだけで語れるものではありませんが、そうした効果のうえに成り立っているというのも密教のすごさだと思いますね。
――正直、どんなお坊さんがご祈祷するかで差が出てきそうですね。修行の差、イメージ力の差ということかもしれませんが……。
大塚 私たちはよく言うのですが、「あれ食べたいな」「お金がほしいな」「あの車に乗りたいな」などと想いながら拝んでいると、後ろで聞いている人たちはちっとも有難くはない。それが、亡くなった人が極楽浄土へ行って、そこでご先祖さんと出会って毎日楽しく暮らせると想いながら拝むと、後ろで聞いている人たちにもそのイメージができあがってきて、「今日の和尚さんのお経はありがたいな」って思える。要は、想いが伝わるんです。その伝わるということをお坊さんは知らなければならないんですね。
――意外にわかっていないお坊さんも多い?
大塚 まあ、それを知らないがために、ただお経を拝んで「今日のお経は何だかな……」とか「お経を拝んでお金を持って帰ったな……」と思う人たちが出てくるんですね(笑)。やはり、心が伴わないとダメなんですよ。密教と言うのは、そうした思いの部分の大切さが如実に語られているわけで、これがすごいところなんです。そのために実際にどうするか? 方法論まで書いてあるのですから。
――方法論の部分に、先ほど話していただいた断食であるとか、護摩行であるとか、古くから伝わってきた修行法があるわけですね。
大塚 そう、断食をするとか、拝む前に必ず水をかぶるとか、昔から言われていることをやったら、本当に気持ちが集中しやすいんです。集中しやすい=イメージしやすい=願いも叶いやすい……という図式になるわけですよ。
その意味では、私たちは昔から言われていることを淡々と行っているだけで、何も新しいことをやっているわけではありません。そのなかで自分が感じてきたことを伝えていくことによって、また次の世代の人たちに同じ効果が出てくるんです。
宗教は人がつくったものだから有難い
――そうやって密教は連綿と受け継がれてきたんですね。密教が目指す最終到達点のようなものはあるんでしょうか?
大塚 弘法大師空海さんが「この世の中に人がいるから拝むんだ」と言ったということを、文章で遺されています。要するに、人がいる以上、永遠に拝まなければいけない。人間には聖人はいないんですよ。
――聖人はいない?
大塚 やはり欲得があり、良いことも悪いこともするのですが、私たちのように拝み続ける人もいますから、世の中というのは悪いほうにいってもまた良くなる、良くなりすぎても逆に元に戻ってしまうというように、うまく調整できているんですね。そのなかに宗教だったり、祭祀が必要であるということなんです。
――バランス調整のために、悪いほうに偏りすぎないために密教の教えがある?
大塚 だから、地球上に人間がいなければ必要ないんですよ。たとえば、私はお坊さんの恰好をして一生懸命拝んでいますが、誤解を恐れずに言えば、仏さんは人がつくったもので、仏さんが人をつくったというのは間違いであると思うんですね。神がいて人がいるという考え方になってしまうと、絶対神になってしまうでしょう? そうではなくて人が神をつくって、仏さんをつくったから、宗教は正しいものが多いわけです。
――とはいえ、宗教が戦争を起こすこともありますね?
大塚 たしかに宗教戦争が起こってしまうように、宗教には間違っているところもありますが、それもまた、人がつくったからなんです。逆に言うと、神や仏さんがつくっていたら戦争なんてしないんですよ。人がつくっているものだから(戦争を起こしたり)不完全なものではありますが、同時に、これが良いというルールがその中にたくさんあるんです。
――宗教は絶対ではない、でも、普遍的に「これが良い」と言えるようなものも内包されている……なにか懐の深さを感じるようなとらえ方ですね。一神教に対する多神教のとらえ方と言えばいいか……。
大塚 なぜ日本で仏教がこれだけ浸透したのか? いろいろな考え方がありますが、仏教の良いところは、最初に教えられる戒律に「不殺生」という、人の命は殺めてはいけません、世の中の生命というものは尊いものですよ、という教えがあるからだと思うんです。だから、普通に街を歩いていても急に襲われたり、殺されたりすることがあまりないんですね。
――仏教を通してそういう考えが浸透したから、人をむやみに殺めるような行為が抑止され、社会の定着していった面があるわけですね。
大塚 仏教の教えの最初はそこにあるんですね。そして、そのあとに「不偸盗」といって、人のものを盗ってはいけませんというものが出てきますから、日本ではものを置いておいてもなくならない面があるわけです。
このように、人の命を殺めてはいけない、人のものを盗ってはいけないという教えがあるからこそ、いまの日本の平和があり続けるとも言えるわけです。これがなければ、日本人というのはもっと戦争ばかりしたりしていたかもしれません。
――戦争がまったくなくなったわけではないですが、仏教によってモラルが根付き、社会の平和につながった面は、確かにあるでしょうね。
大塚 逆に、神や仏さんが絶対だと思ってしまうと、神が「他の国を攻めろ」と言った瞬間、攻めることになるんですよ。ここが宗教の一番危ないところなんですね。神や仏さんを絶対神だと思ってしまっうと、それが良いことにもつながるでしょうが、悪いことに導く人が出てきた時、悪いほうに一気に走ってしまうんです。
――そのあたりは、西洋型の一神教の弊害かもしれないですね。
大塚 そう。(一神教は)悪いほうに走った場合が怖いんですね。とはいえ、宗教というものは人が幸せに生きるための道を説いている要素がほとんどなので、一神教が悪いとも言い切れません。そちらが正しいという比較はしませんが、宗教は人がつくったものだととらえると、宗教のいい面が活かせると思うんですね。たとえば、私たちお坊さんがやっていることを皆さんが見て、「ああ、有難いな」と思っていただける。それもみんな、人がつくってきたものが受け継がれてきたからなんですね。
良い人も悪い人もいるのが世の中である
――人が社会をつくり、その過程で、より良いものを求めて信仰してきた……。
大塚 たとえば、皆さんは警官を見て、警察の制服を着ているから警官だと思い、正しいことをしてくれると思うわけです。同様に、白衣を着ているからこの人はお医者さんで、体の悪いところを治してくれると思う。私が着ている袈裟も、そういった意味での制服であり、その制服は歴史がつくってきた。
私が袈裟を着て法話などをしているのは、開祖である弘法大師空海しかり、その末裔のお坊さたちしかり、多くの先師さんがいたから、こうしたお坊さんとして生活ができるし、お坊さんとして敬ってもらえる。
――なるほど。ご自身が偉いからではなく、その背後には長い歴史のなかで形成されてきたものがあるわけですね。
大塚 だから、私はお坊さんとして袈裟を着て、宗教をつくってきてくれたご先祖さんたちに恩を返すために一生懸命拝んだり、できるだけわかりやすいようにお話しするように心がけるわけです。お経に「報恩感謝」という言葉がありますが、要はご先祖さんに恩を返すためにお坊さんをやっている感覚です。
――そういうお坊さんが身近にいると、宗教の意味も変わってきそうですね。
大塚 そういうお坊さんも必要ではありますが、一方で、そういうことを考えないお坊さんもいるでしょう。世の中というのは悪い人も良い人もいて成り立っているので、そんな人も必要ではあるんですけれどね(笑)。
私自身、悪い人が悪い、良い人が良いのではなくて、それが世の中だと考えることが必要だと考えるようにしています。そのように物事を広くとらえながら、それでも「今日一日良かったな」と思う人がたくさん増えていけば、その分、幸せな世の中になってくると感じます。法螺貝を吹いたり、護摩を焚いたり、火の上を歩いたりするのも、あくまでもそのための手段であるということですね。
――山岳修験のメッカである大峰山の修業の意義についてお聞かせください。
大塚 大峰山の修行というのは、人生が本当に苦しくつらい時、そのつらさに打ち勝っていく強さを身につけていくということなんです。場所によっては、一歩間違えると落ちて死んでしまうような断崖絶壁を一生懸命上がっていくのですが、そういう厳しいこと、つらいことを自ら行うことで、自信と強さを身につけることができるんですね。
――苦しくつらい時に打ち勝つというのは?
大塚 人間は同じことを毎日繰り返すのではなく、ちょっと苦しいこと、つらいことがあるほうが心身が鍛えられていくんですよ。有名なところでは、西ノ覗(のぞき)という、大峰山の断崖絶壁に人を逆さまに吊って、「親孝行するか〜?」「勉強をするか〜?」と言って誓わせる修行をさせるのですが、下まで何百メートルもある断崖絶壁に逆さに吊るされるので本当に怖いんですよ。
――命綱とかはつけるんですよね? ただ、怖いでしょうね……。
大塚 ただ、1回目は涙を流したり、取り乱したりして、言葉も出ないですが、2回目になると怖くなくなるんです。3回目はもっと怖くなくなります。いくらやっても怖がらないのでやっているほうがしんどくなってくるんですね(笑)。
つまり、つらくて怖い経験は1回目だけということなんですよ。2回目、3回目はどんどん楽になっていく。ということは、自らつらさを経験することによって人の幅が広がっていくんですね。そういう経験をして幅が広がることによって、世間に帰った時に少々のことでは動じなくなるわけです。
――免疫をつけるような感じですね。
大塚 ちょっと怖いことがあっても平常心でいられる。人というのは経験値を上げることによって普段の行いがラクになるんです。大峰山修行というのは、こんなふうに自分に自信をつける、自分を強くすることによって世の中に帰った時、男になっていくんですね。みんな大峰山には男になりに行くんです。だから、男しか入れないんです。
言われるがまま動くことで変化する
――大峰山はいまの女人禁制ですが、女性を入れない意味はそこにあるんですね。
大塚 昔は「大峰山の修行を経て、はじめて男として認められる」と言われたくらいの場所なんですね。山伏という言葉には、山に伏して一生懸命に修行することで、世の中を渡っていく力をつけるという意味があるんです。自分を強く持つことによって世間に帰った時にしんどくない、ラクに過ごせる、そういう体験を繰り返し行うことで、苦しい時にこれは修行なんだ、と思えるようになってくるわけです。
――つらいことに無理して挑むわけではなく……。
大塚 そう、これがすごいところで、たとえば、会社の上司からいやなことを言われたことを「これはパワハラだ」「これはセクハラだ」と自分がストレスに思うからハラスメントになるわけで、ストレス感じなければハラスメントではないんですよ(笑)。それを修行だと思って受け取れたらいいんです。
――自分がパワハラだと感じるからパワハラだと(笑)。
大塚 まあ、誤解されそうな言い方かもしれないですけどね。ただ、そうやってストレスを感じ続けたらどうなるかというと、次は病気なんです。それに対して、修行だと思ってずっと行うことで、その次に何があるかというとご利益なんですね。その時の気持ちによって結果が変わってくるんです。それを体現して行えるのが山伏の修行なんですね。
――パワハラやセクハラを肯定したり、仕方ないと思ったりするということではなく、本人のとらえ方について話されているわけですね。
大塚 大峰山の修行は、ただ一生懸命歩いて登り、下りてくるだけなんですが、その経験ができる場所なんですね。鎖がかかっているところや岩場を登ったり、怖い経験をさせられても、その時は修行だと思っているから何でもできる。何十メートルの岩場を登るなんて普通はできないですよ。山伏の人たちが「はい、右足をここへ」「左手をここに」って言われるんですが、言われるがままに動くわけですよ。
――言われるがままに動く。
大塚 言われるがままに動くというのは、人間なかなかできることではないんですよ。そうやって山の頂上に立った瞬間、こんな断崖絶壁を登ってこられたという自信が生まれるのも当たり前ですよね。もう一つは、悩んで苦しい時に山に行って、無理無理に体を動かすんです。断食と同じなのですが、苦しいからこそだんだん欲がなくなっていくわけです。思考回路が停止していくんですね。
――そこは、ランナーズハイと一緒ですね。
大塚 ええ、そうすると残るのは素の自分だけなんです。だから、ただ単に山に登っていい景色だなと思った時、いままで世間で思っていたストレスが全部なくなるような瞬間が出てくるんです。その瞬間、次に生まれた苦しみは、いままであった苦しみと同じ苦しみではなくなってしまう。その経験ができるというのもこの山の修行であり、これが修験道の一番いいところだと思いますね。
自分の幸せは、まわりの人の幸せ
――人には、つらく苦しいことに挑むこと自体に価値を求めるところがありますが……。
大塚 私は年間百数十名、大峰山へ連れていくのですが、一番のご利益は「自分が変わる」ということですね。あと多いのは「良縁」です。結婚する人が多いんですよ、自分が変わるから、まわりの対応が変わるのでしょう。
――なるほど、ご利益があるわけですね。
大塚 たとえば、お願いされて引きこもりの子を山へ連れて行ったんですが、修行から帰ってきて「何かしなければ」と思ったんでしょうね。就職して、いまではその子がいなければその仕事は回らないというくらいまでになったそうです。自分ができるんだと自覚した瞬間、できることがどんどん増えてくるんです。
あと、修行で男になると言いましたが、男性ホルモンが出やすくなることもあるかもしれません(笑)。「この前、合コンで出会った女性からメール入りました」なんて報告があったりして、そんなご利益もあるのかと驚きますね(笑)。
――山での修行が、自分が変わるための装置になっている。
大塚 いままで暗かった人が急に明るくなって芸ができたら、この人楽しいから宴会に呼ぼうよと、お誘いが増えますよね。それは本人が変わったからなんですね。その結果、まわりの人も楽しくなる、幸せになる。密教というのは、やはり大乗仏教なんです。たくさんの人が乗れる乗り物なんですね。ご祈祷にしても、自分のまわりの幸せを願うことによって、たとえ自分の状況が好転しなくても、まわりが幸せになることによって自分も幸せになれる、そういう思想なんです。
――だから、まわりの人のために拝むことが多いんですね。
大塚 自分の願いごとをいくら祈っても、叶わないと言われています。それはなぜかというと、まわりの人の願いを叶えるための修行だからです。自分は病気でつらい、でも、まわりの子や孫が「おじいちゃん、今日学校でこんなことあったんだよ」と寄ってくれば、自分は不幸なままでも、幸せな気持ちになるでしょう?
自分の体が思うように動かなかった場合であっても、まわりに幸せな人がいれば、たとえば、そういう人が365人いて、1人ずつ1日ごとにやって来たら、365日ずっと幸せなんですよ。これが、密教的な大乗仏教なんです。
――自分の幸せを願う前に、もっと大きな願いを持つことが大事だと。
大塚 365人の友だちをつくって、毎日見舞いに来てもらったら、人生においてこんなに幸せなことはないと思いませんか? そのためにどうするかというと、自分がまわりの人のために何をするかなんです。密教では、それを現世利益と呼んでいますが、そのために必要なことがたくさん書かれているんですね。
私たちが毎日拝んでいるのは、まわりの人たちが変わっていくということなんです。山伏の修行にしても、自分自身を変えるためのものだとお話ししましたが、それも結局はまわりの人の幸せにつながっていくでしょう。
――今回のお話で、密教や空海さんの教えがより身近になった気がします。大塚さんが続けてこられた修行の意味もイメージができました。
大塚 またぜひ吉野にいらしてくださいね。世界遺産でもある吉野、高野山、熊野の自然を一緒にめぐりながら、またお話ししましょう。
――それ自体、自分自身を変え、まわりを変えていく大事な修行になりそうですね。今回はありがとうございました。
(プロフィール)
大塚知明 Chimyo Otsuka
真言宗醍醐派 大師山妙法寺住職。修験道当山派吹螺師。1967年、奈良県生まれ。1990年、種智院大学卒業。1991年、醍醐寺伝法学院卒業後、僧侶になる。1998年、御祈祷寺として名高い大師山寺(奈良県吉野町)の住職に就任。2005年から15年以上にわたって、毎年4月、真言密教最大の荒業として知られる「焼八千枚不動護摩供修行」を続け、世界中の人たちの幸福と平安を祈願している。また、大峰山先達として年間十数回登拝、四国八十八ヶ所霊場をめぐるなど、フィールドワークを通して密教、修験道の伝統を広く伝えている。現在、ならどっとFMにて毎月第4月曜(15:00~16:00)放送中の「山寺おしょうのラジオ法話」でMCを務めるほか、全国各地で法話、祈祷、護摩供を続ける。NPO法人日本セルフメンテナンス協会理事。
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