「ひたすら手鎌で草を刈りながら、これ以外何もいらない多幸感に満たされるんです」(平澤勉さんインタビュー②)

セルフメンテナンス協会の友香さんから、「どうしても取材してほしい人がいるんです!」と紹介され、訪ねたのは彼女の地元である神奈川県小田原市。
この小田原の郊外にある曽我エリアは、日本有数の梅林(曽我梅林)が知られる一方、高齢化によって農の担い手が減り、耕作放棄地が増えつつあります。
今回お会いしたのは、そんな曽我に移り住み、里山の梅農家をサポートすべく、自ら無農薬の梅栽培に携わる平澤勉さん。
平澤さんは、大手自動車メーカーの研究開発部門のエンジニアとして働くかたわら、組織開発に従事。40歳の節目に退職後、導かれるようにして曽我の風土、そして梅と出会います。
以来、仲間とともに目指してきたのは、「100年後に残したい未来をつなげていく」こと。
まだ肌寒さの残る2月、梅まつりで賑わう曽我へ足を運び、梅林の近くにある平澤さんの納屋の前で、焚き火を囲みながらその波瀾に満ちたライフストーリー、この土地への想いなど、ゆっくりとお話しを伺いました。今回はその後編。(長沼敬憲)

なぜ会社を辞めたのか?

――会社を辞められたのは、オートバイの事故から10年目くらいですよね? どんな背景があったんでしょうか?

平澤 当時、EVとハイブリッドの開発をしていたんですけど、一つはやはり(開発上の)ある欺瞞にどうしても目を潰れなくなったところがあって。環境にいい車っていう言い方をしているんですが、バッテリーの製造工程では、そもそもレアアース、レアメタルがないとつくれないんです。グローバル企業だから世界的にバリューチェーンを広げているのですが、逆に「企業が元気になることは地球に優しくないのではないか」と、青臭いようですが結構悩みました。「儲からないことはやらない」ということが鮮明でしたから、そのあたりに企業の限界を感じて、特に何をやるかも決めないまま辞めてしまったわけです。

――辞めた後、どんなことをされていたんですか?

平澤 2ヶ月くらいした頃、「地域づくりのプロジェクトの話を聞きに来ないか」と声をかけられたんです。「地域でファシリテーションする人を探しているから、組織開発の手法を使ってやってみないか」ということでスタートし、そこから日本のいろんな地域に行っては、そこの住民の方と行政の方、事業者の方と一緒になって、「どういう地域にしてきたいのか」という対話をするようになったんです。

――小田原との関わりはその過程で?

平澤 4年ほど前、よそ様のお世話ばかりしていて自分が住んでいるところでは何もしていないな、と気づいたんです。すでに小田原に移住していましたが、ここで何が起きているのかを考えはじめたとき、これ(曽我梅林)があったんです。

――もともと、梅とは関係なく小田原に移り住んでいたのですか?

平澤 8年前に移住してきたのですが、当初は別に農業とか梅とか興味はなかったし、そもそも曽我梅林があることも知らなかったんです。(移住した理由は)景色がすごく良かったと、ただそれだけです(笑)。やはり自然が好きなので、自然環境がいいところで暮らしたいと思っていましたから。

――では、梅との関わりは……。

平澤 移住して2〜3年目くらいのとき、Facebookで梅農家さんが収穫イベントのお知らせをしていたのを見て行ってみたのがきっかけです。ただ、農家さんは暗い顔をされていて、先の希望がないようなお話ばかりをボソボソとされるんです。「こんなことやっていても全然お金にならないんですよ」「友達にも会えないし、恋人なんかつくる暇もない」「帰ったら母ちゃんと2人で出荷の準備で、それが終わったら……」と、ずっとしゃべっている。 それから何度か手伝いには行ったのですが、いろいろあって続けられず、(その農家さんは)農園をいったん閉じてしまうことになりました。

――はたから見るだけではわからないですが、梅農家の日常はかなり切迫したものなんですね……。

平澤 私も梅をやるようになってわかったんですが、真面目にやると本当に他のことやっている時間がないんです。かといって、別に金銭的に豊かになるわけでもない。一日中誰とも口をきかずに山の中で作業して、帰ったら母ちゃんが一人で家で黙々と選果していて、梅が終わったら次はキウイという感じで、こうした日常がただひたすら続いていくんです。

――平澤さん自身、それでも梅の仕事を始められたわけですよね?

平澤 自分がここで何かやるんだったらと思って農業にまつわることを調べていくなかで、小田原市のある企画の打ち上げに誘われ、そこで「曽我の里 和(なごみ)農園」をやっている川久保和美さんに出会ったんです。くじ引きで決まった席に座ったら、目の前が川久保さんだったんですね。

梅農家として生きる

――川久保さんは、曽我別所の梅まつり観光協会の会長を務められるなど、地域の顔役のような方なんですよね。川久保さんに相談して梅の栽培を始めた?

平澤 そうです。川久保さんに教わりながらと言いつつも、忙しい人なのでそんなに張り付いてとかではなく、朝に2、3パラパラと言われて、自分でこうかな、こうかなと思いながらやっていると、別の農家さんが通りかかって「お前何やっているだ? そんなやり方じゃダメだぞ!」って言われて。そうやっていろんな人に教わりながらやっていましたね。

――たしか「梅干しはそんなに好きではない」とおっしゃっていましたが……。

平澤 はい。じつは梅干しが嫌いで、おむすびが並んでいても梅だけは絶対に買わなかったタイプなんです。選ぶのは鮭や明太子でね(笑)。とはいえ、自分が始めることになり、ただボランタリーでやっているわけにはいかないので、どうしたらちゃんとマネタイズできるのかをまわりの農家さんに聞いていった感じですね。
ただ、このあたりの農家は、農協の言われた通りに薬を撒いて、肥料をやって、農協に納めるんです。それで値段がわかるのは3ヶ月後なんですよ。農協が全部かき集めてどこかに売って、結果も割り算していくらでしたっていう順番なんですね。みんなそれで何十年とやってきているから、自分たちがつくったものがいくらになるかもある意味運まかせで、「だいたいこのぐらいになっていればいいんだよ」という感じなので、新規就農者がどうすれば生計を立てられるのか、みんな知らないです。

――実際、どう取り組まれるようになったんですか?

平澤 正解はないと思うんですが、自分の場合、どちらかというと出口から逆算して栽培するやりかたにしていますね。たとえば、最終的に梅干しにする、ジャムにする、テキーラに加えると考え、これをつくるためにどのぐらいの梅をつくらなければいけないのか、そのためにどのぐらいの面積で何をしなければいけないか、この耕数でこの面積の本数をやるためにはどういう剪定をしなければいけないか、順番に計画を立てるようにします。

――とはいえ、最初はなかなか思い通りにいかなかったのでは?

平澤 いまでも思い通りにいかないですよ(笑)。

――きちんと筋道立ててというあたりは、もともとの理系脳が残っていた感じでしょうか?

平澤 どちらかというと、企業の中でやってきたマネジメントのほうが近いかもしれないですね。初めは梅の木の見方もわからなかったし、品種もわからないし、「とにかく切れ」って言われても「えっ、切れってどういうこと?」みたいな感じでしたが、逆に「自分がわからない世界がこれだけあるんだ」っていうところが楽しかったんだと思います。

――つらいと思ったことはなかったんですか?

平澤 自分では苦労した実感はなくて、傍から見たら「よくやってられるね」って言われるんですけど、やっている本人は楽しくて夢中になってやっている感じですね。

――夢中になれる理由はどのあたりにあるんでしょう?

平澤 いくつか思い浮かぶのですが……、1つは仮説検証がある領域というか、機械ほどがっちりとはしていないんですけど、(梅の栽培にも)「こういうことをするとこうなりそう」くらいのものがあるんですね。しかも、食べられるものだから、最後に収穫して、自分で実感することができるわけです。
あと、農家さんもそうですし、友達などもそうですし、いろいろな人が梅に関わっているところも大きいですね。なんだかんだで始めるとワイワイ言ってきたり、やって来たりするところがあって、それがまた楽しいなと思っています。

草刈りでつながる世界

――そうした過程で意識の変化などはありましたか?

平澤 最初の頃、(遠くの見晴らし台を指しながら)あの山の上の草刈りを手鎌でやっていたんですけど、刈り方もよくわからなかったので、夏の暑い盛りに草を手でつかんで鎌を振っていたんです。ただそれは間違ったやり方で、刃物でいうと押し切りって言うんですけど、すごく力が必要なんですね。
日本の鎌は、(そういう押し切りではなく)引き切りをするためにあるんです。草はつかまずに鎌の歯を滑らせていく感じなんですが、それを習ってからまず歯の研ぎ方が変わって、それから鎌の振り方が変わったんですね。そうすると、草を刈ることそのものに自分が没頭していくようになって、自分とか鎌とかという感覚じゃなくなっていくんです。

――すごいですね。まるでゾーンに入っていくような……。

平澤 だんだん刃先が草の中を滑っていく感覚にダイレクトにつながりあって、そのうち草を刈ることそのものになるというのかな。あのときの感覚というのが、禅の只管打坐(しかんたざ)とはちょっと違うかもしれないけど、ただそれそのものになるという感じがしたんです。それが意図的にできるようになったんです、草刈という作法を入れることによって。

――草刈りが作法なんですね。

平澤 山の上でひたすら手鎌で草刈って、終わったと思って顔を上げたとき、目の前に小田原の街の光景が広がるんです。もうこれで幸せ、これ以外何もいらない、十分……その世界を味わう醍醐味というか、あのときの充足感、多幸感というか……、「ああ、幸せ〜」って思う気持ちは、いまのところ農業以外では味わったことがないんですよね。

――座禅の言葉が出ましたが……。

平澤 もともと座禅をしていたり、そういうことに興味はあったので、それと感覚が近いなって思ったことがありました。あるいは、それこそ焚き火を真ん中に置いて仲間とダイアローグ(対話)をしていたとき、ふと気がつくと誰が何を言っていてもわかる、「あっ、そう」と思う感覚になっている……でも、何かを理解することとはちょっと違う。

――頭で認知するのとは、確かに違いそうな気がします。

平澤 誰がしゃべっているのかはどうでもよくて、自分も何か言っているんだけど、でも、自分がしゃべっているわけではないような、そんな感覚になることが何回かあって、それが意図的にできるようになったら世界は変わるなと思ったことがあったんです。(草刈りの時の感覚は)そのときの感覚にもちょっと似ているところがあったかもしれません。

――自己との対話という点で、すべて重なりそうですね。

平澤 対話で言うと、対話そのものになっている。その対話そのものになっているときの感覚っていうのは、まだいい表現がないんですけれど、何か大きなものとつながっているような感じなんです。大きいというか偉大なというか、何だかわからない自分よりもはるかに超えた何かと接続をしているような感じ。
それを自分が認識しているわけだけど、別に分離しているわけじゃないんです。なんか自分、自分と言っているこの頭と別のモードに入っている何かによって、自分が動かされていて、その自分が何かをしゃべっている。ここで言っているときの自分というのは、我ではないみたいな感じです。

食べることは生きること

――草刈りでそんな体験ができるのだとしたら、ここでの暮らしはやめられませんね。

平澤 草刈りをしているとき、そうしたモードに何か近い感じがしていて、その感覚を大事にしながら続けていくと、「そうそう」という感じで再現性が高くなっていくんです。私の中では、草刈りという作法を通してある境地に達するトレーニングができるのではないかと思っています。

――ダイアローグをやるよりも、そのスイッチがより入りやすいということですか?

平澤 そう思います。ダイアローグは人との相互作用だから、相互作用の中身にかなり影響しますよね。

――なるほど。そういう感覚って、梅の仕事をやるうえでも一つの原動力になっている?

平澤 なっていると思いますね。

――では、梅に携わることでのやりがいや楽しさは?

平澤 あるといえばあるし、梅でなくてもいいのかもしれないですけど、梅は試行錯誤しやすいんですね。木としてすごく丈夫なので、素人が適当にやってもいきなり枯れたりはしないし、実自体も糖が含まれてないから味に大外れがありません。だいたい梅の味にはちゃんとなります(笑)。私自身、自分なりに知識をかき集め、いろんな人に言われたことをハイブリッドして、こうじゃないかなと仮説を立ててやっているんです。

――仮説検証の楽しさもあるっていうことですね。

平澤 あと、梅の味は日本人はたいてい知っていますよね。そういう意味で、最終的にさまざまな食べ物に加工していくときも、一通りやりつくした感があるところに新しい何かがないかを探していける楽しさがあります。たとえば、テキーラ梅酒みたいなアイデアだってまだまだ出てくるわけです。

――食材としてのポテンシャルが十二分にあると。

平澤 それから、梅干しとかもそうですけど、もともとは烏梅(うばい)いう薬として日本に入ってきているものなので、やはり身体にいいものなんだろうと思います。身体にいいものを身体にいい環境できちんとつくってみたいというところに、梅はすごく適っていると思うんですね。

――「身体に良い食とは何か」ということに意識が向いたきっかけとかはあったんですか?

平澤 ありました。それは結構最近で、3年くらい前です。なぜ考えはじめたかは忘れてしまったのですが、古今東西、全人類が必ずする行為ってなんだろうなと考えたことがあったんです。その中の一つに食べるという行為があるのですが……、他にも「母親から生まれてくる」「呼吸をする」「水を飲む」「排泄をする」「死ぬ」「他者と関わる」。この7つはほぼ必ず、人が人として生きていくうえでやっていることだと思うんですね。
いま、複雑で不確実性の多いVUCA(ブーカ)の時代と言われているのですが、この7つのことは人であれば間違いなくやり続けることでしょう。であれば、そこに立脚して何を大事にしていけばいいか、何をやるのかを考え直してみると、何かいい軸が見えるのではないかと思ったんです。そのなかに「食べる」ということが入っていたわけですね。

「いただきます」の意味

――そうした視点をふまえ、食べるということに対してどうありたいと思われますか?

平澤 どうありたいかというのは難しいのですが……、一つは調理ですね。調理って何なのか? 私は美味しく食べることだと思っていたのですが、もともとは「食べられないものを食べられるようにする」というのが始まりなんですね。
でも、最近の子供たちは「魚の切り身が海を泳いでいる」と思っているって、我々世代は言うじゃないですか。でも、そうした親の世代にしても、何が食べられて、何が食べられないのかはスーパーに行かないとわからないわけです。山や海に行ったってわからないでしょう。つまり、食べていくということの根源が問えない状態になっていて、東日本大震災、あるいはコロナのときでもそうなんですけど、そこで「お金が無くなったら、どうやって食べていくんだ」っていう揺らぎが起きるわけですよ。

――お金がなくなったら生きていけない、食べていけないって思っている人は多いでしょうね。

平澤 でも、ここの農家さんたちは、「(お金はなくても)食物はどうにかなるからよ」なんです。この2つの違いって、人の生き方に食べるということがどれだけ深く根を下ろせているかの違いがあるような気がしたんです。さらに食物はどうにかなるって言っているなかに、そのままでは食べられないものを食べられるようにするということ。梅のように漬けたり、さらしたり、発酵させたりとか……、たとえば、彼岸花の球根は毒なのですが、あれは非常食なんですね。

――田んぼの脇に自生している彼岸花が、ですか?

平澤 もともと飢饉のときに、米もダメ、イモもダメだというときの非常食だったようなんです。かなり水にさらすことで、やっと食べられるらしいのですが、逆に美味しくて毒がなければ、おそらく取っておけないですよね。あれを田んぼのあぜに植えておくのは目印であり、モグラ避けでもあるとされていますが、そもそもが非常食なんだって言うんですね。
そういうものまで食べる時代がもう一度来るかはわからないけれども……、長い人間の歴史の中で何千、何万と人が死にながら、やっと食べられるように工夫された知恵が、買って済ませる時代になって、どんどん失われていっているのがすごくもったいないですね。もったいないというか、この先の時代を考えたとき、ちょっとまずいんじゃないかと思います。

――ただ梅の栽培に詳しくなるだけでなく、食に対する認識そのものが深まっていった感じですね。

平澤 それはありますね。私が子供の頃は母親に「米粒を残すな」と育てられましたが、「八十八回の苦労を重ねて」という言葉の意味がわかるようになったのは本当に最近で、それは「人が苦労して育てたから粗末にするな」という意味だけでなく、米粒でも梅干しでも、「それをつくるまでにいろいろな生き物が関わってそこに至っている」ということだと思うんですね。
学校の給食の場で、給食費を払っているんだから「いただきます」なんて言うことはないってお母さんが言ったという話が、以前ニュースになったことがあったんです。でも、「いただきます」の意味は、本当はそうではないんですよね。

――「いただきます」の意味?

平澤 ご縁のあった、食禅(じきぜん)の指導をされているお坊さんが話されていたのですが、箸を置いた向こうとこっちで世界が違うのだと。向こうは神様の世界で、こちらは人の世界。間の境界として置いてある箸を取って「いただきます」と言うのは、神様の世界に対してなんですね。その向こうに並んでいる食材というのは、韋駄天という神様がかき集めてつくってくださった、ある意味小宇宙なんだというんです。
自分自身がそれを食べるのに値するのかということなどを、食前に自らに対して問う「五観の偈(ごかんのげ)」という経文もありますが、自分は本当にそのあたりが鈍感で……、「米粒を残すな」ということの意味も、こうやって自分で食べ物をつくるようになるまで何もわかっていなかったなと思うんです。

捨てられることは悲しい

――大事なのは、食べることの本質にどうつながれるか……。

平澤 ここで収穫体験をした時のことなんですが、親子でやって来て、採った梅をきれいな梅、そうではない梅に選果していたとき、私が「そうではない梅をこっちのコンテナに捨ててね」って、うっかり言ってしまったんです。見た目があまりに酷いものは売り物にならないからなんですが、飽きた子供たちがその捨てるコンテナの中から梅を取り出して、投げて遊びはじめたんです。「捨てるからいいんだよね?」って。
自分で捨てるって言ったこともあって止めることができなかったんですが、とにかくこれはやめてもらいたい)という気持ちがあったので、「あまりそういうことはしないで」ってかろうじて言ったんですね。後から何が起きているのか自分の気持ちを確認していったら、「悲しい」っていうことがわかったんです。

――捨てられることに悲しさを感じたんですね。

平澤 その梅たちは別になりたくて病気になったり、見た目が悪くなったわけじゃなく、他の梅と一緒に育ってたまたまこうなった、それを人間の都合で分けているだけなんです。そうした梅を「病気だからいらないんでしょ」って投げて捨てるのではなく、他の使い方を考えていくほうが、自分は嬉しいんですね。

――捨てる・捨てないは、梅だけの話にとどまらないと。

平澤 ええ。単にもったいないとか、食べ物だから粗末にするなではなく、その裏にはそこにいた子供たちに向けて、「ただ見た目が悪い、病気だから、都合が悪いからいらない、捨ててもいいと言われることは悲しくないか」っていう思いがあったんです。そこまでは言わなかったですけど、自分で梅を育てていなかったらそういう気持ちも湧かなかったと思います。

――いまの社会のあり方、農業のあり方も含めて、見なくて済んだものを見ておられるんでしょうね。

平澤 確かにいろいろなことを思うんですけど……、自分が生きている意味とか価値がないと生きていてはいけないような気がしている人って多い気がするんですよね。たとえば、いまの大学生を見ていて思うんですけど、就職活動ときに何回も訓練するわけです。自分はこれができます、こういう経験をしてきました、御社でこういうことができますって。ただその一方で、自分らしさとは何か? 自分らしく生きるとはどういうことか? 探そうとする人もすごくいる。それはタマネギの皮をむくように探しても、探しても見つからない。

――どちらかに行ったり来たりしながら、悩んでいる人って多いんでしょうね。

平澤 言葉での表現が難しいんですけど、自分らしくあっていい生き方、場所というものが、ここでの経験を通していろんな人に気づいてもらうことが、「ああ、良かった」という生き方につながっていくんじゃないかと思ったんです。
それは別に、お気楽に楽しく生きて、人生ハッピーだったということではなく、時には大変な思いをしたり……、誰の人生にもあると思うんですね。でも、それも含めて「ああ、良かったな」「この人生を選んで、生まれてきて良かったな」っていうことにつながっていく経験や出会いが、ここでの農とか家とか、曽我というフィールドでつくっていけたらいいなと。

――日常で仕事に没頭しているだけでは、そういう気持ちになりづらいかもしれないですよね。

平澤 アフリカのコンゴに「ウブントゥ」という言葉があって、そこには「他者を通してこそ自分はそこにある」という意味があるんですね。仏教の利他の考え方、華厳経の世界観に近いかなと思うんですが、「自分らしく」と言っているときの自分というのは、焦点は自分に向かっているようで、本当はいろいろなものが関わりあっていて……、それらの存在が自分というものを逆に形づくっているのかもしれないという。

ご飯をつくってくれて、ありがとう

――仏教でいう縁起の世界ですね。

平澤 もう10年以上前に気づいたことがあるのですが、「私のことを認知してくれる人が世の中から1人もいなくなったとき、誰が私を私たらしめるのか」と思ったんです。ジグソーパズルのピースは自分なんだけど、そのジグソーパズルのピースの形は周囲のピースが決めている、という感じです。
つまり、自分がハッピーになるためには、まわりの人がハッピーになっていることが大事で、まわりの人がハッピーなときに本当に自分は笑えると思うんです。そう言っている自分は、確かに自分探ししている自分とは違う気がしますね。

――それを成り立たせている条件のようなものとして、こうした場とか環境の力ってあると感じますか?

平澤 ここはやはりすごくいい場所だなと思いますから、この場所をうまく装置として使って、そういう感覚を立ち上げていくのにいいところもあるかなと思います。でも、この場所だからこそ、というのにはあまりしたくないなと。

――ここだけが特別だと言いたいわけではない?

平澤 いまの世の中の価値観の延長でいくと、この先の日本は結構大変な状況になっていくのではないかと思っていて、お金がない、食べ物がない、エネルギーがない、そういう時代に入っていきそうな気がしているんです。もしかしたら、「昔はあそこに行ってお金さえあれば何でも好きなものを食べられたんだよ」って、子供に言っている時代になるかもしれません。その意味でとても大変な時代、貧しい、暑い、寒い、痛くても我慢するしかない……。

――確かに、そういう可能性も否定できません。

平澤 だけれど、日本でも過去にはそういう時代のほうが圧倒的に長かったはずで、だからみんなが不幸だったのかというと、幸せに過ごしていたこともあったはずです。つまり、その環境や状況によらないでも、私は本当にこの人生で良かったんだって思えるようになっておきたいと思っています。

――いま、平澤さん自身はどんな感じでしょう?

平澤 いま私は、妻と2人ですごく幸せに暮らしています。ただ、何がその幸せの根源なのかと言っても本当に大したことではないんです。のろけ話しっぽくなるのですが、寝る前、必ず妻に今日一日の感謝の言葉を告げるんですね。
それは、「今日ご飯をつくってくれてありがとう」ということもあるし、「朝ゴミ出すのを忘れないでくれてありがとう」でもいいし、何でもいい。それで寝て、朝起きたらその妻が隣に寝ていてくれることを感謝することから始めるんです。「今日も元気に起きてくれてありがとう」、そういう感謝の気持ちを言うこと自体、自分を幸せにしてくれていたりしますね。

――すばらしい。幸せの根源のようなお話ですね。

平澤 基本、妻がつくるご飯は美味しいか、すごく美味しいかのどちらかしかないんです(笑)。妻にとっては不満らしく、「言いたいことがあったら言ってよ」と言われるのですが、私にとっては本当にそうなんです。

――そう感じられるようになった背景はあるんですか?

平澤 私にとって食事が大きく変わったのは、世の中のご飯に美味しいご飯、まずいご飯があるのではなくて、ご飯はご飯、美味しく食べる自分と美味しく食べない自分がいる、という観点に立ったことが大きかったと思います。
もともと山登りをしていたこともあり、山の頂上で食べるインスタントラーメンの美味しさをよく知っているんですが、多くの人は「それは山の頂上だから美味しく感じられるんだよ」と思うのかもしれません。でも、私は思うんです、だったらここを山の頂上だと思って食べたらいいじゃないかと。そう思った瞬間、(インスタントラーメンが)美味しい食べ物になるんです。

――意識が変わると、食べる意味も変わるのだと。

平澤 だから、私にとって妻の料理は、美味しい、すごく美味しいしかない(笑)。だから「いつもありがとう」と言葉にする。こうしたことを大事にやっていくと、この先、食べ物があまりなかったり、暑かったり寒かったり、いろいろと大変なことがあったりしても、幸せな気持ちで「ああ、良かった」と思える人生を歩めるのではないかと思ったりします。

「これだけでいいよね」という体験

――先ほどの草刈りの体験も、訪ねてくる人たちにお裾分けされているんですか?

平澤 このあたりの農家は草刈りをやりたがらないんですが、私は来てくれた人たちに鎌を渡してやってもらうんです。(農家の皆さんは)「なんであんなことやりたがるのか全然わからないよ」って言うんですが、やらなければいけない大変なことをやるのではなく、「やると何かいままでにない面白いことがあるかもよ」みたいな感じでお願いするんです。
実際、草刈りが終わったあと、自分がやったところを振り返ってみたらちゃんと綺麗になっている。やればやっただけ成果が見えることなんてなかなかないですし、草刈りの後にみんなで紫蘇むすびを「美味しい!」って口にする、これだけでいいよねっていうことをみんなが自然に言うんですよね。

――それをもっとたくさんの人と分かち合えたら、なおいいかもしれないですね。

平澤 ワークショップを会社でやったり、いろんな地域に行って対話をしたり、いいと思ったことを広めたい思いは以前のほうがあったと思います。でも、それを受け取る、受け取らないは人それぞれですから、いまはどちらかというと興味ある人が見に来てくれて、いいなと思うことをお互いに持ち帰りあえば、それでいいかなと思ったりもしていますね。

――普段着のまま、あまり特別なことをしつらえたりせず?

平澤 まあ、そこはちょっとわからないですね。このあたりには素敵な生き方している農家さんがたくさんいるんですだけど、あまり知られてないんですね。ご本人は幸せそうで、私も話をしたり、様子を見たりして、これはいい生き方だな、この生き方が広がったらいいなと思うんですが、本当にそれが広まることがいいのかどうかよくわからないところもあります。

――そのあたりの微妙な塩梅みたいなものがあるような、ないような感じでしょうかね。

平澤 8年前、ネパールにいたとき、インドと仲が悪くなってガソリンが入ってこなくなったんですよ。バスが動いていないので、闇バスのチケットをどうにか手配して乗るみたいな感じで、街の中でもプロパンガスがなくなって、みんなで山から木を切り出して、軒先で薪を焚きながら煮炊きしている状態だったんですが、みんなそんなに悲壮感はなかったんですよね。
そこから山奥に入っていって、ガスも電気もないような集落をいくつもまわったのですが、子供たちの笑い顔もそうでしたし、向こうってよくおじさんたちが何もしないでプラプラしていることも多いんですね。でも、それもなんだかいいなと。
でも、(首都の)カトマンズに行くと、みんな携帯を持っていて、年頃の子供たちも欲しがっているんですよ。ある4人家族の家に泊めさせてもらったりもしたんですが、そこはみんな携帯持っていて、日本と違ってみんなで一つの部屋に住んでいるのですが、いつも携帯をいじっているんです。一日500円しか稼がないお父さんが携帯代に月5000円払っていて、これがないと仕事ができないと言っている。なんだかちょっと複雑な気持ちになってしましました。

――たしかに、幸せって何だろうって思いますね。

平澤 「こういう世界がいいよね」と思っている桃源郷の世界と、リアルの世界がどうすればうまく接続されるのかなんですが……、じつはこの場所って、こんなふうにお話しできる状態になる前はかなりのゴミが置いてあったんです。

――そうなんですか?

平澤 全部自分たちで仕分けて、捨てたのですが、ゴミを捨てるってすごく大変なんですね。どう捨てたらいいかわからないものが山ほど出てきたりして。そういう意味では、ここで楽しい収穫体験だけではなく、そういう(ゴミを捨てるような)体験のほうをむしろ一緒にできたらと思うんです。

「答え」よりも「応え」を大事にしたい

――ここでいろいろ体験した後、平澤さんと対話することにすごく意味があるような気がします。聞く側からすると、何か答えを求めてしまうこともありますが、でも、そういう感じではないんだなって思うんですよね。

平澤 おっしゃる通りですね。私は「こたえ」は2種類あると思っていて、ひとつが解答の「答え」、もう一つが応答の「応え」なんですが、私も含めて、どうしても前者のほうを求めてしまう癖がある。自分の感覚としては、アンサー(答え)ではなくて、リアクション(応え)をしているつもりなんだけど、相手にとってはアンサーに聞こえていることもあったりすると思うんです。対話って深いなと思いますよね。

――対話すると問いが繰り返し湧き上がってきますよね。

平澤 対話する際、(むやみに結論を出さないように)「保留する」って言い方をよくしていたんですが、それをやっていくうちに「保留疲れ」をしたことがあったんです。対話だけしていても、実世界が何も変わらない……そのことに対する焦りや苛立ちがどこか溜まっていって、疲れてしまう感じですね。そんなこともあって、何かをやる、手を動かす、いまはそっちのほうにグッと傾いています。ただ、そのときにいま話されたような「ただ話す」とか「答えが出なくても構わない」ということも、一緒に置いてきてしまった気がします。

――これからは一緒に体験しつつ、対話も重ねつつ、その結果生まれるものを味わっていきたいですね。

平澤 はい。日がかげってきたので、もう少し日向のほうに行きませんか? 少し寒いと思うのでもう一度お湯を沸かして、温かいお茶でも飲みましょう。

――いいですね。焚き火を囲んでお話ししているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまいました。また曽我にお訪ねしますね。今日はありがとうございました。
(終わり)

(プロフィール)
平澤 勉 Tsutomu Hirasawa
1974年、川崎市出身。自動車会社研究開発部門にエンジニアとして従事するかたわら、独学でワークショップファシリテーションを学び、社内で組織変革の取り組みも始める。学生時代から通算20年ほど横浜で暮らしたのち、2015年の退職を機により自然豊かな住環境を探すなかで、小田原の曽我の里山と出会う。地域の人たちと交流を深める中で曽我の歴史や自然の魅力、暮らす人たちの暖かさにほれ込むとともに、農家が直面している課題も実感、2019年、自ら梅の栽培を始める。現在、梅を中心にキウイ、柑橘類など、自然栽培による果樹園を3反ほど手がけ、高齢化や後継者不足などにより耕作放棄地が加速度的に増加していく曽我の里山を環境的にも経済的にも持続可能な地域に変えていくことを目指している。お裾分けの野菜でつくった奥さんの晩ご飯をいただくことが一番の幸せ。登山、旅、狩猟、東洋思想なども探求する。https://www.instagram.com/llc.10decades/

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