「この土地に、『ああ、よかった』と思って死ねるような文化を遺していきたいですね」(平澤勉さんインタビュー①)

セルフメンテナンス協会の友香さんから、「どうしても取材してほしい人がいるんです!」と紹介され、訪ねたのは彼女の地元である神奈川県小田原市。
この小田原の郊外にある曽我エリアは、日本有数の梅林(曽我梅林)が知られる一方、高齢化によって農の担い手が減り、耕作放棄地が増えつつあります。
今回お会いしたのは、そんな曽我に移り住み、里山の梅農家をサポートすべく、自ら無農薬の梅栽培に携わる平澤勉さん。
平澤さんは、大手自動車メーカーの研究開発部門のエンジニアとして働くかたわら、組織開発に従事。40歳の節目に退職後、導かれるようにして曽我の風土、そして梅と出会います。
以来、仲間とともに目指してきたのは、「100年後に残したい未来をつなげていく」こと。
まだ肌寒さの残る2月、梅まつりで賑わう曽我へ足を運び、梅林の近くにある平澤さんの納屋の前で、焚き火を囲みながらその波瀾に満ちたライフストーリー、この土地への想いなど、ゆっくりとお話しを伺いました。今回はその前編。(長沼敬憲)

「梅」との出会いは運命だった

――この曽我という土地に関わり、梅農家として過ごす生活はいかがですか?

平澤 少しかっこよく言いすぎるかもしれないですが、最近、「これは自分の運命だったのかもしれないな」と思うようになりました。ただ偶然の連続で、その時々に大事だと思うことをやっていたらここに来たというだけなんですけども、いま、しかるべきことをやっている気がしています。
たとえば、「一週間後に地球に隕石が降ってきて人類が終わることになったら、いまやっていることを続けますか?」みたいなことを考えたとき、会社員時代であれば多分もう会社には行かないと思うんですね(笑)。でも、いまならば一週間後に隕石が降ってくるとわかっても梅の剪定をすると思います。あるいは、今日のように人が来てくれるのであれば、焚火もするでしょう。やっていてどうかと言われると、そういう感じなんです。

――なるほど。いまどれくらいの規模で、どのような感じで梅に携わっておられるんですか?

平澤 時間的なウエイトでいうと6割〜6割5分ぐらいですが、自分の生業の中で、ここをどうにかしていくということに対して8割5分ぐらい置いているつもりです。
具体的には、いま私がやっている梅の木は50本ちょっと、面積でいうと3反ぐらい。私のほかに、新たに京都から移住してきてくれた仲間がやっていたり、あと昨年の梅まつりで知り合った人が新しくまた借りたりというのが、ここ2、3年で起きはじめていることですね。

――後継者の問題などから、この梅林が維持できなくなるかもしれないというお話を聞いています。そういう現実をふまえ、どんな役割を担っていきたいと考えていますか?

平澤 確たる答えがあるのかわからないですが……、起きていることでいうと、いま、地域のことを地域の人だけでは面倒が見られない状況になっています。ですから、地域の外の人の力や関わりを考えながらやっていかないと、確かに(梅林の維持は)無理かなと思いますね。「では、その外の人って誰なの?」ということですが、誰でも大丈夫なんです(笑)。主に考えているのは、東京や神奈川など、いわゆる都市部で暮らす人たちですね。

――そうやっていい形で梅林を維持し、次の世代に受け継がれていくといいですよね。

平澤 (曽我梅林は)70年ほどの歴史なのですが、それって、いまのおじいちゃん、おばあちゃんたちがいろいろと頑張ってやってきた歳月でもあると思うんです。それがむざむざと廃れていくのはもったいないですよね。そうしたおじいちゃん、おばあちゃんたちが「ここで暮らしてきてよかったな」って思いながら死んでくれたらいいなと思いますね。

――おじいちゃんやおばあちゃん世代は、経済成長のただ中で梅林を育ててきたのだと思いますが、いまは時代も変わり、梅という作物のあり方も変わってきています。平澤さん自身、未来にどう継承していきたいと思っていますか?

平澤 それには2つあって、1つは「食べ物をつくる」ということを大事にしていきたい。とくに梅は、みかんなどと違って採ってそのまま食べられず、何か手を加えることによって梅シロップのように長持ちしたり、豊かな味わいになったりする。ですから、食べ物をつくるだけでなく、新しい食べ方を含めて受け継いでく必要があると思っています。
もう1つは、梅だけじゃないと思うのですが、農業には食べ物をつくっていくという役割だけじゃない面があると思うんですね。それは大げさに言うと、「生きるということは何なのか」ということをわかりやすく体験する場としての農業です。そんなふうに農のあり方がシフトしていくといいなと思います。

――確かに、梅はそのままは食べられない。でも、人の手を加えることで、梅干しや梅酒ができたりする特性がありますね。梅の良さってどういうところにあるでしょう?

平澤 機能的な話で言うと保存が利くとか、抗菌、抗酸化作用、疲労回復などの効果もあるし、そもそも日本人ってわりと梅味が好きだと思うんですよね。お菓子コーナーに梅味のものが必ずあるし、梅を使ったお惣菜もたまに食べたくなるでしょう?
あと、これは副次的なことかもしれないですが、そのまま食べられないというのは、じつは関係人口を育むのにすごくいいと思うんです。(曽我に)一回来て食べて終わりではなく、持ち帰った梅酒を持ち寄ってみんなで飲もうとか、3年後に梅干を食べてみようとか、そういう時間や空間を隔てた関係性をつくっていくのにも良い食材だと思いますね。

受け継ぎたい「お裾分け文化」

――日常で忙しく過ごしていくなかで、暮らしを忘れてしまうことってありますよね。平澤さんのお話を聞いて、梅のような作物によって(暮らしのなかにあった)肌触りや手触りが思い出せるんじゃないかと感じました。

平澤 そういう意味で言うと、この土地の環境に頼るだけでなく、なによりも文化の側面からここで梅をやる意味があるなと思っています。たとえば、ここは「お裾分け」が残るところなんですよ。「多くつくっちゃったからここに置いておくよ」とか、「大根たくさん穫れちゃったからもらってよ」とか、そういう習慣がまだ当たり前に残っているんです。

――お裾分けが文化なんですね。

平澤 ええ。遊びに来てくれた人が感動するのもそこなんです。みかんが余ったりしていると「持っていってよ」と言ってくる。「いいんですか? お金払いますよ」と言っても、「いや、いいよ、いいよ」と言うんですが、じつはこのやりとりに文化の違いが表れていると思うんですね。

――文化の違いというのは?

平澤 都市部は資本主義で動いていますが、その前提って等価交換ですよね。つまり、何かをしてもらったら、同じだけ何かを返して精算をしていく。それが都市での基本的な価値観だと思うんですが、お裾分けとかの根底にあるのは農本主義で、それは贈与経済で成り立っているんです。
資本主義の前提は「誰のものなのか」「誰がやったのか」という所有や所属で、そこでは必ず人が何かをやっていることになっていますが、農本主義で生きている人たちの価値観って、人だけで何かをやっているものではないんですね。天地人一体となって営みがなされているということなんです。

――なるほど。確かに大きく違いますね。

平澤 「この作物は私がつくった」とは言うんですけど、根底には私一人でやったわけじゃなく、「たまたま暖かい日が続いてたくさん穫れた」とか、「病気が流行ってしまって見た目が悪くて売れないから、もらってくれよ」というように、天地人営みの中で恵みをいただいていて、そこに自分が(自然の)一部として関わっているという感覚があるんですね。この感覚の違いが、資本主義の世界からやってきた人が驚くところだったり、恵みの豊かさを感じるところなのかなと思うんです。

――農村の暮らしは、等価交換では成り立たないんですね。

平澤 ええ。持てる人と持たざる人がバランスよくいるわけではないですし、困っている人を助けなければコミュニティとして続かないところもある。そこから生まれたのが農本主義だと思うのですが、いまは逆に資本主義で息苦しくなっている人たちがこうした農本主義の世界観で、リアルにお裾分けみたいなことに触れたとき、「こういう暮らしがあったんだ」と思い出す。そこの違いがあるんじゃないかなと思っています。

――都市からやって来る人にとって、ここでの出会えるのはお裾分けなんですね。東京近郊の小田原という土地に、そういう力が残っていることに驚かされます。

平澤 小田原って人口19万人いる中核都市っぽい街なのですが、郊外には里山や農村があって、過疎化などの問題を抱えつつも、こういう文化が残っている。そこには、そういう(気づきや発見の)意味があるのだと思いますね。

お互いに暖め合う関係

――ビジターである僕たちからすると、現地の暮らしの厳しい面には直面せず、エッセンスだけを味わっているわけですが、でも、そこには訪れた人の人生が変わる可能性すら内包されている……それって、すごい関係性だなと思います。

平澤 ここでずっと暮らし続けている人の中だけだと、お裾分けによって何が起きているのかわからない。当たり前にやっているから、そういうものだという感じでね。
文化って金魚鉢だと言いますよね? 金魚鉢の中で過ごしている魚からは見えないけれど、外から見て初めてその素晴らしさがわかる。そういう意味で、こちらの人たちだけもわからない、都市部の人たちだけでもわからない。その両方を見ることができる移住者の役割がある気がしています。

――平澤さん自身、移住者ですよね。同じように移住してくる人が増えてきているんですか?

平澤 少しずつ増えてきていますし、具体的に何か活動を始める人たちも出てきています。ただ、焚き火ではないですが、ほっておくと鎮火してしまうところはあります。だから、移住者もコミュニティをつくって、お互いのコミュニティ、関係人口どうしがつなぎ合っていく役割を持つようになると、燃え続けることができるのかなと思いますね。

――平澤さんのまわりでも、移住者どうしでそういう焚火を囲むような関係が生まれてきている?

平澤 私は炭火のメタファー(隠喩)で話をしますけれど、炭ってバラバラにするとあっという間に鎮火するんです。それが、集めると自分の熱量で灰を飛ばして新しい酸素を取り込んで燃焼し続けることができる。同じように、人もバラバラにすると、熱量があっても酸欠になるのが早いんです(笑)。
昨日も宮城県から農家さんが来てくれたんですが、それは、以前小田原の農家さんを連れて宮城に行ったことがあって、今回は逆にその人たちが「梅まつりやっているから来たぞ! サプライズだ!」と言って来られたんですね(笑)。そうやって相互に交流し、お互いの響き合いから勇気や元気が生まれ、着火され直していくことが大事なことだと思います。

――つながりあうことで燃えていけるわけですね。

平澤 移住者にしても、よそから引っ越してくるというのはここに何かがあるからなんですよね。何かがあるから、わざわざやって来る。そうやって来た人たちに、やっぱり「来てよかったな」って思ってもらえれば嬉しいですし、そう思えるようにあり続けるためにも、お互いがお互いを暖め合い、心の火を絶やさないようにしていきたいと思いますね。

文化を遺すことが「特上」

――平澤さんのところで体験したいと思ったとき、どういう感じでアプローチすればいいですか

平澤 お電話1本で!(笑)。いくつかチャンネルをつくっているところなんですが……、私個人のつながりで「そろそろ収穫が始まるので手伝ってくれる人いませんか」みたいにSNSで呼びかけることもありますし、そういう体験をコンテンツとして提供するサービスを利用することもあります。今週末も(そのサービスを利用して)親子連れでいらっしゃる方がいますね。
あともう1つは、CSA(コミュニティ・サポート・アグリカルチャー)という、たとえばうちの農作物を年3回、梅とキウイとみかんを買ってもらう、あるいは何か企画があるときに声をかけるので来てもらうシステムもあります。いくつかやりながら、どういう形でここに来て、体験などで関わってもらえる可能性があるのか模索しているところです。

――ゆるやかにつながってくるといいですね。

平澤 おっしゃる通りですね。「こんにちは! 来たよ!」と言ってガラっと家を空けると、「ちょうどいいところに来た! いま出かけちゃうんだけど、そこの薪を割って積んでおいて! 薪ができたら風呂入っていっていいから」と、そんな感じでゆるやかに出入りでき、おなじみの人がいても、新しい人が来ても、「ここ空いているから座りなよ」という状態ができていけば。究極は私がいなくても、そうやって動いていく姿になればいいですね。

―都会にはない、ゆるやかな信頼関係ですね。

平澤 「金を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上」という言葉があるのですが、私は「文化を遺すのが特上」だと思っています。文化が遺るとその文化の影響を受ける人が出てきますからね、なによりも文化を残していきたい。
では、どういう文化かと言われたら、そんなに難しいことではなく、「ああ、よかった」と思って死ねるような……。そこにフォーカスして、何をするかを決めていける。そうやって「いいね、こういう暮らし」と思えるような生き方をし続けていく、それを大事にする文化だと思いますね。

無農薬の梅は売れない?

――梅についてお話しを聞かせてください。通常、梅と言うと、梅干しとして食べることがスタンダードですが、平澤さんはいろいろなチャレンジを始めているようですね。

平澤 はい。なによりもやっている人間が経済的に食べていけないと続かないと思うんです。そういう意味で、梅と何かをつなげたビジネスモデルをつくりたいですし、空き家を活用した農泊+農業体験という組み合わせで収益を見込めるモデルをつくることも、自分が実験台になって検証を始めています。それがうまくいくようだったら、他の人にもおすすめしたいですね。

――梅についてはどんな可能性があるでしょう?

平澤 梅そのもののビジネスモデルを考えた場合、じつは農薬を使わず、病気になった梅をどうするかが、一つの大きな課題なんですね。病気になっても味とかにはまったく影響なく、それこそ見た目だけなんですよ。

――身体に害はないのに……。

平澤 卸値がガクンと下がってしまって、商品にはならないんです。そういう意味で言うと、お酒、ジャム、練梅などに加工することによって、美味しさはそのまま、見た目を気にせず価値のあるものがつくれるんです。
いままで梅農家さんは、見た目が悪い梅をつくらないように農薬を一生懸命かけていたのですが、それではここで暮らす人も、生き物も持続可能ではないですよね。そうではなく、そういう見た目の悪いものも出てくることを前提に、ちゃんと価値があるものを価値があるものとして出していけるようになりたい。そのための模索の一つが、無農薬の梅の加工品だったんです。

――いままでは見た目の部分でネックがあるとされてきたけれど、価値を変えていければ無農薬でも成り立ち、新たな価値を生み出してくれるということですね。

平澤 そうですね。それこそ単なるリフレーミング(枠組みを変えること)だったりしますけど、黒星病がたくさんついている梅ではなく、「そばかすがついているのは薬を使ってない証しなんだよ」という言い方ができるわけです。
実際に梅干しや練り梅を食べ比べてもらうと、化学肥料を使わないで育てたものはえぐみが少ないって言われるんです。その感覚がわかる人に聞くと「味の素を使ってる料理って、わかるでしょ? あれと一緒だよ」って言うんですね。

――そういう体感が一度でもあると違うんでしょうね。

平澤 その食べ比べをした人曰く、(化学肥料によって)窒素分が多くなると、アンモニアがあるかないかですぐに味に違いがでる。だから、「肥料は使っていません」なんていうのは、嘘かどうかすぐわかるんだよと言うんです。

――最近では、友香さんとの共同で「テキーラ梅酒」の構想があるそうですね。

平澤 はい、テキーラの原料であるアガベだけを使用した「アガベ100%のプレミアムテキーラ」と無農薬の梅を用いたオリジナルの「テキーラ梅酒」をゆかさんにプロデュースしてもらっています。先日試作が上がってきて、私はお酒が苦手なんですが、口当たりが良く、本当に美味しいんです。
梅酒には甘ったるくて重たい印象もありますが、これは口に含むとフルーティな香りがふわーっと鼻腔まで広がり、その香りをそのまま飲んでいるような、華やかで軽やかな味わいがありますね。ここに来た方に味見してもらっていますが、お酒を飲む方にもあまり飲まない方にも好評いただき、可能性を感じています。

小田原曽我の平澤さんが育てる完全無農薬自然栽培梅を使用した
「テキーラ梅酒」を開発(→詳細はこちら

シンプルな梅干しに価値がある

――味覚の話が出ましたが、「味の違いを知る」ことって意識の変化の第一歩ですよね。

平澤 (曽我に)よくお子さんがいらっしゃるんですけど、嫌いだった人参を食べるみたいなよくある話が、本当に目の前で起きるんですよね。単に自分が楽しい体験をしたからというだけじゃなく、本当に美味しいと言うんです。やはり、味そのものが違うんだろうなと思うんですね。

――無農薬にした意味が体感できると。

平澤 自分は味音痴で、何でも美味しいと思うのでわからないですが……(笑)、本当は美味しいものって余計なものを足したり引いたりしないで得られるものですし、それを美味しいと感じるのが自然で健康なんじゃないかと思うんです。そういう食べ物をつくり続けていければいいですね。

――逆にそれが強みになって、広めていける可能性はありますよね。経済的な面も含めて。

平澤 その経済的な面でいうと、食べ物をつくって売るっていうだけだと、いまの農業はまったく引き合わない状態だと思っているんです。けれども、食べるということは生きるということに直結している。いまは水も食べ物も労せず手に入りますが、買えないからと言って無しで済ませるわけにはいきません。世界的な食糧不足やエネルギー価格の高騰などが身近な課題として実感される時代に、飢えや戦争に陥ることなく、安心できる食べ物がちゃんと手に入り続ける価値は見直されていく……そういう世界に、私は農業を近づけていきたいと思っています。

――そうしたプライスレスな世界を持続させるため、経済面をどうするかということなんですね。

平澤 これは私の夢にもつながってくる話ですが……、日本で梅と言ったら和歌山・紀州の梅なんですね。和歌山南高梅のブランドが知名度としては圧倒的なのですが、小田原には「十郎梅」という独自品種があります。梅干しにすると、口の中でほどけるような皮の柔らかさが特徴で、この頃はわざわざ指名して買いにきてくださる方がいらっしゃいます。
この小田原で梅をつくる価値や意味とは何だろう、和歌山にない良さって何だろうって問うていくと、すでに「十郎梅」という大事な宝があったんですね。

――「十郎梅」こそ、小田原の梅のブランドであると。

平澤 同時に、都心からアクセスが良くて、海も里も近くて、そういう環境の中で梅をつくっている。都市部の近くで、これだけの自然が残っている場所で、いろんな人に来てもらいやすいというのは、和歌山と決定的に違うんです。

――たしかに、関東圏で梅を身近に感じられる点では小田原のほうが優れていますよね。

平澤 それから、いまスーパーで売られている多くの梅干しは、食品加工業者さんがつくっているものがほとんどです。1990年代の減塩ブームのなかで塩を減らし、保存が効かなくなった一方、品質管理や価格競争が熾烈なので、梅の品質のばらつきを調味することで均していたり、保存料を使ったりするようになりました。曽我の農家さんみたいに、自分で育てた梅を自分で漬けているケースはごく少数なんですよ。

――なるほど。保存料を使い、調味した梅干しが普通になってしまっているんですね。

平澤 そういう意味でも、この曽我で本来の梅干しのつくり方、原始的で素朴なつくり方が続けられているというのは、逆に強みであると思っているんです。

――平澤さんのお話を聞きながら、小田原という土地が、いわゆる観光としてではなく、都市近郊の人たちの訪ねる選択肢の一つとして注目されるポテンシャルがあるのかなと思いました。箱根に観光で行くという従来型の選択肢もいいけれど、それとはまた違うモデルになれそうですね。

平澤 ドイツのクラインガルテン(農地貸借制度)とかロシアのダーチャ(農園付き別荘)とか、世界的にも2拠点生活のスタイルはいろいろありますが、これらは基本的には一個人のライフスタイルを指していると思うんですよ。「私は2拠点生活をやっています」というみたいに。

――平澤さんのイメージはそれとは違う?

平澤 ええ。自分の場合、そうした2拠点的暮らしを受け入れるコミュニティが、曽我にできないかなと思うんです。単に住んでいる場所が2ヶ所あるというだけでなく、定期的に通う先の暮らし方とか生き方とか、人との関わり方が自分自身の生き方、人との関わり方にも反映されていくような場所ができたら、そこに通う意味が本当にあると思いますね。

――暮らし単位で結びつくということですね。

平澤 移住でなくてもいいんです。小田原に来るようになってから、「うちの子供が買い物に行くと、こういうことを言うようになった」とか、「食べなかったものを食べれるようになった」とか、そういう変化がすごく大事だと思うんです。

人生を変えた壮絶なバイク事故

――平澤さんは大手自動車メーカーでエンジニアとして働く傍ら、さまざまな研修やセミナーに参加し、会社の組織開発にも関わってこられたんですよね。

平澤 はい。そうした場でいろいろと学んで、それを自分の会社の中に広めることを行っていました。

――何かきっかけがあったんですか?

平澤 私の場合、高校からずっと理系で、大学も工学部、大学院で研究までして、研究開発でメーカーに入るほど理系一直線の人間でした。もう本当にThe理系の頭で、人の感情はノイズだ、感情は仕事の邪魔になると本気で思っていました。いま思うと、すごく傲岸不遜な人間でしたね。

――いまの平澤さんからは想像できません(笑)。

平澤 オフィスでも平気で人を泣かせたり、「おまえじゃ話にならないから上の人間連れてこい!」みたいな仕事の仕方をしていました。世の中には使い物になるか、ならないかの2種類の人間しかいないみたいなね。ただ、30歳のときに大きな転機があって……、バイクで大きな事故を起こしたんです。それまで何度も事故はしていたのですが、その時は高速道路での事故で、事故前日からの記憶がいまでもありません。

――本当に大事故だったんですね……。

平澤 はい。後から警察に聞いた話だと、保土ヶ谷バイパスで追い越し車線を走っているとき、狩場から八王子方面に乗った直後の三方向から合流するところで、合流してきた車が真ん中の車線を飛ばして、自分の前に割り込んできたんですね。そこに自分が追突する形の事故でした。
意識戻った時にはすでに集中治療室で1週間が経っていて、幸いにも意識は戻りましたが、親指以外動かない身体になっていました。両肩骨折、肺挫傷、右骨盤粉砕骨折、大腿骨骨折、左膝蓋骨粉砕骨折、左の足の指はすべて骨折していて、右の足の指が2本なく無くなっていたんです。
全身骨折しているので、その炎症反応で40℃ぐらいの熱が1ヶ月ずっと続いていて、気がついたらナースコールを押す以外は何もできない身体の生活が突然始まったんです。

――想像を絶するような体験ですね。

平澤 もちろん面会謝絶で、ナースコールを押して、「水を飲ませてください」「テレビをつけてください」「トイレお願いします」という感じです。人にトイレのお願いをするのは初めてで悩みましたが、それはどうしようもなくて。ただ、その時に限ってかわいい看護師さんなんですよ(笑)。
もちろん、大きいほうもしなきゃいけない。骨折している腰を両側からバスタオルを敷いて持ち上げてもらって、それが激痛なんですよ。そうやって便座の上に落としてもらい、「どうぞ」みたいな感じです。大部屋だったので、布1枚向こうに人が寝ていて、そこで用を足さなきゃいけないわけです。

――いやあ、信じられない……。

平澤 横になっているときって重力がかからないので、自分の便意をあんまりコントロールできないんです。だから、食事時にタイミングが合うとすごく申し訳なくて。でも、どこにも行けないし、汚すわけにもいかない。
意識が戻ったらそんな生活がいきなり始まって、熱で朦朧としていて、寝返りも打てない。身体を動かすことができないまま、ずっと天井を見ているしかない。しばらく恥ずかしさとか、いろんなことがありながらも、1週間くらいすると慣れてきて、だんだんと何があったのかなと思い返すわけです。

人はいつ死ぬかわからない

――たとえば、どんなことを思い返したんですか?

平澤 事故のときの様子を教えてもらい、後続車に轢かれなかったから死ななかったんだなとか、追突して飛んだらしいんですけど、警察の話だとあと2~3メートル中央分離帯側に飛んでいたらガードレールに落ちて駄目だったそうです。
あと、自分の足の指がなくなっているのは自分のバイクで潰されたんですけど、それがもう少しズレていれば命を失っていたとか、いろんなラッキーが重なって死ななかった。逆に言うと、人はいつ死ぬかわからないっていうことがすごくよくわかったんです。

――人はいつ死ぬかわからない。

平澤 言われてみれば、何で生きているのかって、それまでたまたま死ぬという地雷を踏まずにきただけで、その地雷はどこに埋まっているかは誰にもわからないわけです。なんとなく定年まで働いて、平均寿命までってやっているんだけど、明日死ぬかもしれないよね、みたいなことがすごくリアルにわかって。このまま死んだときに自分の葬式に来た人は何て言っていたんだろうなって、ちょっと気になったんですね。
「平澤って何が正しいか、正しくないかが大事なやつだったよな」とか、「融通が利かない面倒くさい奴だったよな」とか、そんなことを言われるのかなと思って。だけど、そうやって死んで俺は良かったのかなと、もう一方で思ったんですよね。

――これまでの生き方でよかったのかと。

平澤 そんなことをモヤモヤと思いながら3ヶ月経った頃、面会謝絶が解けたんです。そうしたらすごくたくさんの人がお見舞いに来てくれたんです。でも、理解ができなかった。お見舞いに来てもこちらは何も返せないし、何か良い評価をつけるわけでもない人を、なぜ見舞いにくるんだろうと。
あるとき、自分が会社で泣かした同期が見舞いに来たんですね。私は大部屋の入口側に寝ていたのですが、誰か来たなと思ったらそいつがぱっと入ってきて、俺のこと見た瞬間に「あっ、生きていた!」と言って、涙流したんですよ。
そこからいろいろと話したら、どうやら会社の中では「あいつはもう駄目だ」というメールが出回っていて、そのなかで「とりあえず生きている」という話だけ聞いてやって来たみたいなんですね。

――だから、「生きていた!」となったわけですね。

平澤 自分の目の前に、元気だった頃に会社で滅茶苦茶に言って、ひどい仕打ちをしていた人間がお見舞いに来てくれて、俺のことを「生きていた」って涙を流してくれたのがすごい衝撃で、そこからいろいろ考えるようになりました。
俺はどうやって死んだら良かったのかなって考えたとき、何がどうなるかわからないけど、「ああ、良かった」と言って死にたいなって思ったんです。いつ死ぬかわからないのは自分だけじゃないから、そうすると他の人だって、多少でもそう生きることができたらいいのではないかと。

――仕事との関わり方も大きく変わったんでしょうね。

平澤 自動車会社って、結構車好きが入るんですよ。車雑誌を読み漁っているとか、大学で自動車部に入っていましたとか……、それが入社して半年から1年も経つと、みんな下向いて誰かに怒られないように仕事している。夢なんて語っているうちはわかってないみたいな感じで、まわりに合わせられるようになると「お前わかってきたな」と評価されるわけですね。

――そうやって、だんだん適応していく。

平澤 でも、それって誰かの評価に自分の人生を委ねているわけですよね。そんな生き方をみんなが10年、20年し続けた先に、本当にそれでいい車ができるのかとか、自分たちはここで働いていてよかったと思えるのかとか、いろいろ思ったとき、なんかそうじゃないんじゃないかと。

――入院のほうはどのくらい続いたんですか?

平澤 (面会謝絶が解けてから)その後また半年、合計9ヶ月間病院にいて、さらに退院してから1ヶ月リハビリしてから、ようやく会社に戻ったんです。それだけ休んで戻してくれた会社も偉いなと思うのですが、そうやって1年ぐらいかけて戻ってみると会社の見え方が全然変わっていて。

――どんなふうに変わったんですか?

平澤 入院する前は組織活性化とかいろいろやっているのを見て、「またくだらないことに時間とコストをかけて」という感じだったんですが、1年経って会社に戻ってまわりをよく見てみると、いろんな悩みを抱えながら人は仕事をしている。それぞれが精一杯の人生を生きているんだけど、うまくいかなかったり、魔が差したり、気が抜けたり、それでも気を張っている人もいたりっていうことが、やっと見えてきたんです。
その時初めて、自分から組織の活性化をやりたいって手を挙げたんです。そこから本当にまわりの声を聞くようになって、全国の様々な事業所で働いている仲間たちがいったい何を感じているのかと問うようになり……、いろいろと話を聞くなかで見えてきたのは、「お金をもらっているから、仕事だから、嫌なことでもやらなきゃいけない」ということだったんですね。文句を言うのはもってのほか、プロ意識を持って間違いのないアウトプットを出し続けなきゃいけないってみんな思っている。

――なるほど。確かにそういう面はあるのかもしれません。

平澤 ただ一方で、タバコ部屋で交わされている会話は、「さっきはあんなふうに言ったんだけど、だいたいこの会社はおかしいよな」という感じなんですね。それがすごくおかしくて、「うちの会社のいいところ言ってください」って聞いても何も出てこない。「悪いところを言ってください」って言うと、いくらでも出てくる。でも、これって誰が幸せになるのかっていうふうに言われた瞬間にみんな口を閉じるんですよね。
で、しばらく時間を置いて話を聞いていくと、「本当はこうじゃないと思っているんだよね」っていう言葉が出てくる。だったら、その「本当は」という部分を、どうしたら会社や仕事の中で照れずに、はばかることなく、しかもアウトプットのクオリティを上げていけるようなことができないのかと、当時の部長にプレゼンをしたんですね。そうしたら、その話をぜひ全員の前でしてくれって言われて、当時はネット回線がないので衛星中継を介して、2000人の社員の前で話すことになったんです。

――すごい。どんなことを話したんですか?

平澤 「誰かから言われた正しいことを、間違いなくやるだけなんて働いている甲斐がない。そうじゃなくて、一人一人が本当は自分はどうありたいのか、どうしたいのかを考えて、出し合っていこうよ」って話したんです。しかも、役員が話す1時間のうち20分も、「誰だあいつ?」みたいな若造がしゃべる時間にあててくれて。
ただ、終わった後のアンケートは賛否両論がひどかったですね(笑)。他の役員の話はよかった、素晴らしい。でも、自分のパートだけ、なんだあれは、とか書いてあって。なので、今度は逆に、そのアンケートにわざわざ書いてくれた人のもとへ行脚して、話を聞いて……。そういうことから始まって、働く人が幸せに、同時に会社としても、社会に対しても、良いアウトプット、良い仕事ができる場にしていきたいと、動き出すようになりました。

――そうやって会社のなかで組織開発に邁進するようになった平澤さんが、なぜいまの仕事に……。

平澤 仕事は大好きで、会社も大好きだったんですけど、さっき言った「ああ、良かった」と思って死ねるかどうかと問うたとき、何だかわからないですが……、「この仕事をずっと続けていくのか」って思ったんですよね。それで、40歳になったのを一つの節目に、会社を辞めようと思いました。次に何をしようと決めたりせず、とりあえず辞めようと思って辞めたんです。

後編に続く)

(プロフィール)
平澤 勉 Tsutomu Hirasawa
1974年、川崎市出身。自動車会社研究開発部門にエンジニアとして従事するかたわら、独学でワークショップファシリテーションを学び、社内で組織変革の取り組みも始める。学生時代から通算20年ほど横浜で暮らしたのち、2015年の退職を機により自然豊かな住環境を探すなかで、小田原の曽我の里山と出会う。地域の人たちと交流を深める中で曽我の歴史や自然の魅力、暮らす人たちの暖かさにほれ込むとともに、農家が直面している課題も実感、2019年、自ら梅の栽培を始める。現在、梅を中心にキウイ、柑橘類など、自然栽培による果樹園を3反ほど手がけ、高齢化や後継者不足などにより耕作放棄地が加速度的に増加していく曽我の里山を環境的にも経済的にも持続可能な地域に変えていくことを目指している。お裾分けの野菜でつくった奥さんの晩ご飯をいただくことが一番の幸せ。登山、旅、狩猟、東洋思想なども探求する。https://www.instagram.com/llc.10decades/

2023年2月、梅まつり真っ只中の曽我梅林(小田原市)にて